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参考サイト 本当の対立点とは何か?(「保守主義」の定義) (戦争に負けた国blog様) このサイトに見るように「小さな政府」こそ保守主義だとする主張がある。 保守主義がすべからく「大きな政府」に反対する、という意味では確かにそうだが、保守主義は「経済保守(新保守=リベラル右派)」だけではない。 伝統文化・社会的価値の維持発展に主な関心を注ぐ「伝統保守(旧保守)」は、経済政策においては一般に「小さな政府」よりも中負担・中福祉(=中規模の政府)を志向する。 従って、この命題は、半分だけ正しい。 用語 説明 関連ページ 小さな政府(limited government)※注:項目なしのため、安価な政府の項目で代用※補注参照 「小さな政府」ともいう。18世紀末頃より用いられた自由主義の財政的標語で、財政規模のあまり大きくない政府をいう。ナポレオン戦争後のイギリスでは、軍事費の削減はもとより、航海法・独占特許制度の撤廃などの自由主義施策の推進と並んで一般経費の縮減が進められた。このため1870年頃まで国家財政の規模は年々減少、または漸増するにとどまり、史上ほとんど唯一の「安価な政府」が出現した。その思想的背景にあるものは、国の役割を国防・警察などに限るA.スミスの夜警国家観である。しかし、前世紀(注:19世紀)末以降イギリスを含めて経費膨張が避けがたい傾向となったことは、帝国主義の風潮に追うところが大きい。第二次世界大戦後は、福祉の充実など各経済分野での公共部門の拡大が「高価な政府」へと拍車をかけているが、1980年代アメリカのレーガン政権、イギリスのサッチャー政権下では「小さな政府」への動きがみられた。その趣旨は、経済・社会政策の領域での政府の役割を削減し、市場機構と競争に多くを委ねることによって財政赤字・政府規制を改め、公営企業の民営化を促し、自立・自助の精神により資本主義経済の再活性化をはかることにあった。(⇒経費膨張の法則) ケインズvs.ハイエクから考える経済政策 ※補注:実際には「安価な政府(cheap government)」という政治・経済用語は英語圏には存在しない。(cheap government は「安っぽい・みすぼらしい政府」の意味になってしまい、用語として不適切)⇒英語に疎い日本人学者の間で使用される誤った用語と思われるが、ここでは日本語版ブリタニカ百科事典の記載内容をそのまま転記する。
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元ページ「自虐史観の正体」 「日本人の自虐史観(東京裁判史観)からの完全脱却を応援します」とあるが、これをやると「東京裁判」主導した米国への批判論に繋がって日米安保体制に亀裂を生んでしまうのではないか? - 名無しさん 2016-09-03 09 54 50 憲法学者の井上達夫が日本国憲法と同じくGHQから押し付けられた「農地改革」を改憲論者達が非難しないことをダブル・スタンダードだと批判している。曰く、そうして生まれた自作農が保守の支持基盤になっているからで、都合が良ければ押しつけと言わない欺瞞だと。誤解のないように言っておくと、氏は「専守防衛の範囲内ならば自衛隊を戦力ではない」と主張する護憲論者達もダブル・スタンダードだと批判している。 - 名無しさん 2016-12-04 13 25 00 自虐史観とはどのような史観なのか、まず説明・定義して貰いたい。 - 書人不詳 2017-03-14 17 05 47
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日本を嫌っているのは中国・韓国・北朝鮮だけである証拠 テキサス親父が喝!日本の誇りと愛国心 - Japanese pride and patriotism <目次> ■日本への評価 ■親日国 ■人種の平等と世界平和,公正な世界を目指した日本 ■外国人が見たNIPPON ■日本に滞在している親日外国人 ■海外の個人ブログの日本語訳 日本旅行・日本滞在体験談 結論 参考サイト ■日本への評価 #ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (bbc07_m1a_jp.png) ⇒肯定的:54% 否定的:20% ソース http //www.globescan.com/news_archives/bbccntryview/backgrounder.html 【ロンドン6日時事】国際情勢に最も肯定的な影響を与えている国の1つは日本-。世界の多くの人々がこのような考えを持っていることが、英BBC放送が6日公表した国際世論調査の結果で明らかになった。調査は27カ国の2万8000人が対象。列挙された12カ国について「世界に与える影響が肯定的か否定的か」を問うたところ、肯定的という回答の割合が最も高かったのが日本とカナダで、それぞれ54%。これに欧州連合(EU)53%、フランス50%、英国45%などが続いた。日本については、25カ国で「肯定的影響」との意見が「否定的」を上回り、中でもインドネシアでは8割以上が日本を評価。ただ、中国と韓国では「否定的」とした人がいずれも約6割を占めた。時事通信 2007.03.06http //www.jiji.com/jc/c?g=pol_30 k=2007030600182 http //headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070306-00000045-jij-int ■親日国 | 親日国(インドネシア、インド、ポーランド、台湾、パラオ、トルコ) ■人種の平等と世界平和,公正な世界を目指した日本 人種の平等と世界平和,公正な世界を目指した日本 東京裁判名場面(アメリカ人による誠実な弁護) ◆日本がアジアに残した功績 (flash版) http //datas.w-jp.net/flash/vip1219.html アジアの曙光 -10- 親日家の声を聞こう!! http //mikomo.hp.infoseek.co.jp/menu00.htm 日本びいきの外人を見るとなんか和むスレのまとめ http //nihonnagonago.blog115.fc2.com/ 愛国心を育てる名言 http //ilovenippon.jugem.jp/?cid=23 日本の文化そのものが最大のプレゼントだった http //maokapostamt.jugem.jp/?eid=5356 日本人よ、胸を張れ http //maokapostamt.jugem.jp/?eid=5612 世界に影響を与え続ける日本 http //maokapostamt.jugem.jp/?eid=5167 「戦争がなかったら、私は今でも陛下の臣下です」サイパン人の言葉 http //maokapostamt.jugem.jp/?eid=3553 外国人が見た日本の戦い http //maokapostamt.jugem.jp/?eid=2005 60余年ぶりに助けに来てくれた日本軍 http //maokapostamt.jugem.jp/?eid=2694 韓国人が知らない黒人 http //maokapostamt.jugem.jp/?eid=208 ■外国人が見たNIPPON 日本に住む“リアル外国人”たちがおかしな日本文化を大指摘&徹底討論! どうして日本は世界に対して劣等感を持つのか? (なかなか面白い番組なので、ぜひ見てください。) 外国人が見たNIPPON その1 外国人が見たNIPPON その2 外国人が見たNIPPON その3 外国人が見たNIPPON その4 外国人が見たNIPPON その5 外国人が見たNIPPON その6 外国人が見たNIPPON その7 ■日本に滞在している親日外国人 日本に長年滞在されている親日アメリカ人の投稿動画です。以下動画より抜粋「自分の国を愛してることは別に悪いことではない~~日本人は自分の国を自慢しないよね…どうして?日本は素晴しい国だと思いますよ。」 ■海外の個人ブログの日本語訳 サーチナ 各国のブログから見る日本、各国のブロガーは日本・日本人をこう見る 各国の人々の本音が書かれています。例えば、日本に仕事、留学、観光で来日した、中国人、韓国人が、来日前と比べて日本に対する見方が変わった等が書かれています。常日頃、特に外出時は、日本や日本人のイメージを悪くしないように気をつけて振る舞わなければと思います。ただ、中国人、韓国人のブログで、歴史認識について、南京大虐殺や従軍慰安婦等はあったとして書かれていることがあるので、歴史については、このサイトや本等で正しい歴史を勉強して下さい。 中国ブログ 台湾ブログ 韓国ブログ 米国ブログ 仏国ブログ 日本旅行・日本滞在体験談 世界の声-やまとごころ.jp http //www.yamatogokoro.jp/voice/ 結論 日本を嫌っている国は中国、韓国、北朝鮮だけである、これだけ他国の方々に愛され、心配され、時には叱咤激励される国がほかにありますか?日本はすばらしい国だ、侵略国家などではない!---- 参考サイト 海外での日本人気@まとめwiki http //www15.atwiki.jp/jpcl/
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阪本昌成『憲法理論Ⅰ 第三版』(1999年刊) 第一部 国家と憲法の基礎理論 第三章 憲法(典)の存在理由とその特性 p.45以下 <目次> ■第一節 憲法(典)の存在理由[48] (一)憲法(典)の存在理由は、共通のルールを設定して、各人の「自由」を守ることにある [49] (二)強制は避けられない [50] (三)もっとも「自由」は統治構造のあり方について明示的な指示をするわけではない [51] (四)統治権力から各人の「自由」を擁護するための憲法を近代立憲主義的憲法という [52] (五)近代立憲主義は「法による統治の先導・統制」を実現する目論見である ■第二節 近代立憲主義にいう「自由」と「民主」[53] (一)自由主義は法がどうあるべきかに関する思想である [54] (ニ)自由は法と対立せず、法と不可分である [55] (三)民主主義は何が法となるかに関する思想である [56] (四)民主主義はなぜ正当化されるか [57] (五)包括度・自由度等を満たした政体を民主制という ■第三節 憲法典の意義とその規律方式・事項[58] (NO TITLE) ■第四節 憲法典の特性[59] (一)憲法典は統治権力の割当と制限に関する究極の法である [60] (ニ)憲法典自身の規範性は常に疑問視される [61] (三)憲法典自身の妥当性を根拠づけることは容易ではない [62] (四)憲法典自身に実効性をもたせるために憲法典に工夫が施される [63] (五)憲法典の特性として基礎性・大綱性をあげる見解は曖昧である ■ご意見、情報提供 ■第一節 憲法(典)の存在理由 [48] (一)憲法(典)の存在理由は、共通のルールを設定して、各人の「自由」を守ることにある 「自由」という言葉は多義的である。 本書でいう「自由」とは、強制のないこと、すなわち、「消極的自由」(negative freedom)をいう。 その自由は、他者からの強制を受けることなく、各人の望むところを、自ら有する知識に立脚して追求し得ることをいう(ハイエク『自由の条件Ⅰ』)。 「消極的自由」は、政治参加して権力を獲得すること(「国家への自由」と呼ばれる政治的自由)ではなく、「求めるものを実現する力」でもなく、また、平等の実現でもない。 さらに、「消極的自由」は、「国家による自由」と呼ばれる各人の幸福実現でもない。 「自由」とは、万人に共通する究極目的の存在を否定し、究極の目的設定とその実現を各人に委ねることを意味する(自由の意義および価値については『憲法理論Ⅱ』 [48]~[53]で詳論する)。 このように、真の自由は究極目的を知らない。 ただし、自由は、各人の意図追求にとって必要な手段についてのみ合意を生み出す。 各人がその望むところを追求するにあたって必要とするその手段こそ、共通の体系的ルールであった。 自由な国家に共通の善が存在するとすれば、それは、個人的意図の追求に便宜となる普通妥当な共通のルール、すなわち法を国家が提供し、維持することである。 [49] (二)強制は避けられない いかに自由な社会であっても、強制は避けられない。 自由は強制を基本的には忌避するものの、貴方の自由に対して強制を加える者に、国家機構が強制を加えざるを得ない。 強制を排除して、貴方の自由を保護するためには、国家機構の強制に拠らざるを得ないからである。 これを「自由のパラドックス」という(「自由」全般については『憲法理論Ⅱ』でふれる)。 法という一般的抽象的ルールは、その強制を最小化し、自由を最大化するための工夫として、人間が長期に亘って学習し、受容してきた自生的装置であり、抽象的な知識である。 法は、国家による強制を最小化しつつ貴方の自由を最大化すること以外の目的を持ってはならない。 また、法は一定の条件を満たす成員全員に等しく向けられていなければならず、特定の目的を持ってはならない。 法は、ある人が何を為さなければならないかを決定できないのであり、何を為してはならないかを受範者を特定しないで決定するものでなければならない(それは、丁度我々がルールによって「フェアプレイ」を求めたとしても、それが何であるか語り尽くせず、ただ「アンフェアなプレイ」だけを具体的な文脈の中で排除できることと似ている。先の[47]で「負の力」という表現を用いたのは、これを念頭に置いている)。 法の中でも憲法(典)は、国家機構による強制の及び得る範囲を画定し、各人の自由を最大化することを目的としている。 [50] (三)もっとも「自由」は統治構造のあり方について明示的な指示をするわけではない 「自由」は、各人の生活設計について各自の判断に委ねるよう指示するものの、万人にとっての共通の目的を持たないだけに、統治機構の具体的なあり方については何も指示しない。 「自由」は統治権力に対する「負の力」にとどまる。 そこで我々は、「自由」のために、憲法(典)において、歴史的経験的に学びながら、「自由」を諸基本権カタログとして類型・具体化し、なおかつ、各人の選好を強制のない中で統治に反映させながら、「制限された政府」として相応しい統治の機構(強制を最小化する国家機構)を定めようとするのである。 その結果、憲法は、「統治機構と基本権の部から成る」、と言われるに至る。 中でも、ヨーロッパ大陸では、その絶対主義の崩壊期に、政治的統一体としての国家を維持するためには、組織的な統一性を法文書として書き込むことが必要であった。 それが、成文憲法、すなわち、憲法典である。 成文憲法の原点は、この観点からすれば、個人の自由権を文書の上で確定することにあるのではなく、政治的統一体としての国家の構成を明示することにあった。 換言すれば、憲法典は、第一に、国家との関係で市民が自由に行為できる領域を確認すること、第二に、市民の自由な領域を最大化するに相応しい国家機構を設計図として描くこと、を目的として制定されたのである。 [51] (四)統治権力から各人の「自由」を擁護するための憲法を近代立憲主義的憲法という 近代立憲主義的意味での憲法とは、強制の不存在という意味での消極的自由を擁護するために、「配分原理」および「組織技術」(権力分立という統治技術)を内容として組み込んだルールをいう(権力分立については、後の第10章の [185] 以下でふれる)。 「配分原理」とは、自由は法の許容(国家の意思)によってもたらされるものではないからこそ、原則として無限定に各人に保障されるのに対し、その領域を侵害する国家の権能は限定されることをいう。 近代立憲主義は、多くの場合、成文、成典かつ硬性の形式をもつ憲法典のもとでの統治を実現しようとした(この時点から、憲法と憲法典とが同視され易くなる)。 立憲主義憲法は、「実質的意味での憲法」(成文、不文を問わず、およそ国家の組織・作用の基礎に関する constitution)を、「形式的意味での憲法」(憲法典という成文成典形式で存在する憲法)の中に可視化させながら可能な限り閉じ込めた。 そればかりでなく、憲法典は、最高法規という実質をもつことによって下位法に対する拘束力を併せ持った。 またさらに、それは、権力分立という組織技術に拠りながら、統治権力の行使を制限することによって、国民の自由を保障するという「配分原理」を狙ったのである。 もっとも、国民の自由とは消極的自由をいう、と先に定義づけたものの、近代立憲主義のモデルを、フランス革命に求めるか、それともアメリカ革命に求めるかによって、「自由」や憲法の存在理由を捉える方向は変わってこよう。 この点は、次の[54]でふれる。 [52] (五)近代立憲主義は「法による統治の先導・統制」を実現する目論見である 「立憲制とは、制限された政府を意味する」(ハイエク)といわれる。 近代立憲主義的意味での憲法は「制限された政府」を実現するための法文書である。 そのためには、統治に先行しそれを指導する規範を可能な限り明文化することによって、統治権力を制約することを構想しなければならない(もっとも、その規範が全面的に明文化されることはない)。 そのルールこそ「法の支配」という思想である(この点は、後の第四章[64]~[75]でふれる)。 ■第二節 近代立憲主義にいう「自由」と「民主」 [53] (一)自由主義は法がどうあるべきかに関する思想である 「自由」とは、[48]で述べたように、外的強制のないことをいう。 自由主義とは、国家の強制力を制限し、法がどうあるべきか(または、誰が権限保持者であれ、権力者に課せられるべき制限、国家活動の範囲にかかわる体系)に関する思想体系である。 自由主義は、個人の自由を最優先する思想体系であるが、それは、次の二つの要素から成る。 第一は、 国家の統治活動を法の支配のもとにおいて国家の強制力の使用を最小限とすることであり、 第二は、 国民の経済活動に対する国家の介入を最小限とすることによって「市場での自由経済」を維持することである。 この第一の要素と第二のそれは、無関係ではない。 真の自由主義は、国家の経済政策をも法の支配のもとに置くことを考えたのである。 自由の領域から防御権としての個別的な基本権が生ずるとした場合(この点については、『憲法理論Ⅱ』 [55] で述べる)、基本権は超国家的・前国家的に存在するものであって、国家が法律によって授与するものではない、と考えられ易い(その思考法が自然権思想である)。 しかし、自由といえども国家内に存在し、国家によって保護されると考えるのが正しい。 国家と憲法の存在理由は、個人の自由領域を保護し、それをカタログとして例示し、自由を根源とする基本権保護に奉仕する点にある。 もっとも、自由と基本権とは同義ではない。 自由は、諸基本権を獲得するための条件を各人に提供する基盤である。 諸基本権は、一般的自由を基幹として保障されるに至るのである(この点については、『憲法理論Ⅱ』 [52]~[55] 参照)。 民主主義なる語は、個人的自由を尊重する体制を指すものとして度々用いられてきている。 ところが正確には、自由と民主は包摂関係にも、対立関係にもない、相互独立の概念である。 [54] (ニ)自由は法と対立せず、法と不可分である 自由は法と対立するものか否か、歴史を通じて絶えず論争されてきた。 かたや古代ギリシャ時代の主流思想から始まって、ロック、スコットランドの自由主義者から、今日のアメリカの政治学者に至るまで、《自由は法なしには存在しない》と説いてきた。 彼らにとって、法は、個人に何を為すべきかを指示するものではなく、個人の選択の機会を保障するものとされ、そのために、自由と法とが不可分であると考えられたのである。 他方、ホッブズ、ベンサム、フランスの思想家、そして近代の法実証主義者たちは、法は基本的に自由への侵害であり、従って、「自由とは法の禁じていないことを為す一切の権利である」(ベンサム)と説いてきた。 この見解の対立は、法に対する見方の違いを反映している。 法実証主義者は、法が人間の合理的設計(意思)に従って作られるであろうことに期待を寄せ、法(law)と立法(legislation)とを同一視しながら、設計の外に漏れやすい自由を法(立法)に従わせようとする。 このため、法と自由が対峙され、法の自由侵害性が説かれるのである。 これに対してスコットランド啓蒙思想の流れを汲む自由論者は、法は合理的設計によって語り尽くされるものではなく、人々の自由な営為の積み重ねのなかで修得されて生まれ出るものであって、権力者の意思(立法)がその法を侵害しないところにこそ自由あり(【N. B. 9】参照)、とみるのである。 【N. B. 9】自由と法の見方の変遷について。 自由の概念は、次のように、歴史的に様々な変転をみせてきた。 ① E. クック(1552~1634)時代の自由は、普通法上保障されてきた、具体的で伝統的な特権すべてを意味した。 ② その後の啓蒙期には、自由は、人であれば先験的・無条件的に有するはずの抽象的な権利(人権)を意味するようになる。その射程も、フランス啓蒙思想と、スコットランド的それとで、異なってくる。真の意味の自由は、後者である。「現代における個人的自由は、17世紀のイギリスより以前に遡ることは、ほとんど不可能である」(ハイエク)。 ③ 「自由」を知らない大陸では、自由は権力に近づくことである、とか、自由は理性の命ずるところであると捉えて、抽象的な自由の議論を作り上げた。そうしたフランス的啓蒙思想を反映したフランス革命は、貧困の撲滅から幸福の条件まで、自由の名で実現すると約束した。それは、国家による経済市場への介入、ユートピア的社会への全面変革を容認する思想へと膨らんでいった。 ④ これに対して、アメリカ革命は、「独立宣言」にみられるように「幸福の追求」を個人に保障しようとしたに過ぎず、権力を用いて富を再分配したり幸福の条件を整えることは論外であった。アメリカ革命を支えた思想は、スコットランドの啓蒙思想であって、それは、自由な社会システムに諸問題の解決を委ねたのである。 ⑤ こうした二つの流れは、自由とは理性によって統制された(されるべき)ものとみるか、それとも、「画一的な目的も終局も措定することもない」もの(オークショット)とみるか、「二つの自由論」として、今日まで論争されてきている。 本書は、スコットランド啓蒙思想にいう「自由」を妥当と考える。その自由は、消極的で無内容にみえるものの、「それが積極的になるのは、我々がそれから生み出すものを通じてのみである」(ハイエク『自由の条件Ⅰ』33頁)。 [55] (三)民主主義は何が法となるかに関する思想である 民主主義とは、多数意見による決定方式に基づきながら、何が法となるかについての教義をいう。 その教義は、これまで国民主権の理論のみならず、基本的人権の尊重思想と不可分の形で、あたかも統治の目的であるかのように議論されてきた(目的としての民主主義観)。 民主主義が自由の条件であるかのように説くとすれば、それは民主主義という用語の濫用である。 自由の範囲は、政治的意思決定の及ぶ干渉の範囲によって左右されるのである。 民主主義とは、望ましい統治の方法・手段をいうのであって、統治の目的ではない。 それは、誰が権力を如何に行使するかを問うのである。 自由主義と民主主義との関係の捉え方は、次のように様々である。 第一の見解は、両者の融合・調和的に捉える立場である。これは、フランスにみられてきた伝統的思考である。フランスにおいては、ローマ教会との争いのなかで、教権から自由に、統治形態について自己決定することが「自由主義」の眼目であると捉えられたために、自由主義運動が容易に民主主義運動と結びついたのである。我が国の社会科学の相当数が、民主主義は自由の擁護を内包する政治体制である、と説くのは、この影響を物語っている。ところが、「民主主義への道を自由への道と考えた人々は、一時的な手段が究極の目的と誤解したのである」(F. メイトランド)。 これに対して、両者を対立的に捉える立場も有力である。その代表的論者がC. シュミットである。彼は、自由主義と民主主義とが結合したといわれる現代議会主義の危機を摘出するにあたって、こう述べる。自由主義は抽象的人間に対して自由と形式的平等とを保障する点で異質性に根底を置き分散的であるのに対して、民主主義は人間を政治的な利害をもち政治的に規定された公民とみる点で、その同質性を原理とするのであって、両者は区別されなければならない。現代の議会主義の危機は、両者を区別しない見解にこそ内在しているのである(シュミット著、稲葉素之訳『現代議会主義の精神史的地位』参照)。 第三の見解は、本書で示したように、両者を独立した概念と捉える立場である。自由主義と民主主義が、相互に独立する概念であることは、その反対物を挙げれば、はっきりする。民主主義の反対物は権威主義であり、自由主義の反対物は全体主義である。 「民主主義」(democracy)は、ギリシャ語のデーモス(demos = 多くの人々)のクラトス(kratos = 権力)を語源とすることから分かるように、「権力は人々に属す」の意であり、「多くの人々による支配」を表すにとどまる。 「民主」なる用語の濫用の典型例が、「実体的民主主義」とでもいうべき民主主義観である。 この立場は、実体価値として、特に「自由で平等なる市民(シティズン)としての価値」を重視し、市民を自由で平等な道徳的・自律的存在として処遇することこそ民主主義的である、とみるのである。 先にふれたように、この見方が、残念ながら我が国にも深く浸透してきた。 確かに、民主制を専制と対比しながら、前者の特徴が「自律」による統治または「自己統治」にあり、後者のそれは「他律」による統治にある、と説くことは、専制に対するプロパガンダとしては有効であった。 ところが、個人の尊厳保障を民主制の条件と説いて、自由または平等にまで言及することは、あまりに実体的価値を吹き込んだ誤用である。 また、利益・選好を異にする多数者国民による政治的決定を「自己決定」と呼ぶことはできない。 「自己決定」は、あくまで個人についていい得るだけである。 これに対して、先に示した民主主義の意義づけは、「手続的民主主義」とでもいえる考え方であり、これは、国民が被統治者であるという事実を率直に承認しながら、その政治参加の手続(投票、言論、請願、ロビー活動等)を民主主義の中身におくのである。 [56] (四)民主主義はなぜ正当化されるか 民主主義がなぜ正当であるのかという疑問に関しては、通常、次のような解答が寄せられてきた。 (ア) 個人的自由の安全装置であること。例えば、ケルゼンは、民主制が自由な個人意思と国家秩序との間のギャップを最小限にするシステムである、と説く。それは、民主制とは、誰もが一票を等しく持って、いつでも多数派となる自由をもつ政体である、とする実体と形式とを合一しようとする民主主義観である。しかし、これも誤用である。自由が守られるかどうかは、多数者の意思次第であって、民主主義は自由にとって脆弱な防御壁に過ぎない。多数決原理は、単なる便宜である。基本権はその便宜を破るのである。 (イ) 長期的にみれば、多数者意思を形成するよう国民を教育する効果的な方法であること。または「討論に基づく統治」であるから、合理的な決定に至るであろうこと。しかし、この点を過信してはならない。多数の意思は激情となるかも知れない。また「討論による統治論」は、いつでもプロセスを強調するのみであって、それが何をもたらすか明確でない。我々の政治的選好は、全生活のなかで形成されるのであって、討論によって形成される領域は限られている。 (ウ) 具体的に現存する人民と、政治的統一体としての人民とが同一であるという原理に適合すること。例えば、シュミットは、民主制が「支配と被支配の可能な限りの同一性」を保持する国家形式であるとして、その正当性を主張した(シュミット『憲法理論』288頁)。ところが、その同質性が、人間の同質性とは別個の、民族や国民精神の同一性として捉えられるや否や、それは、代表技術を許容しないばかりか、「敵/味方」の峻別を政治世界に要請させることになり、「味方」の意思のみによる過酷でハードな統治を呼びがちとなる。ソフトな政治は、同一性を具現するためのものではなく、多元的な意思・利害・選好を調整することにある。多数者の歓呼による直接民主制(【N. B. 10】参照)は、健全な多数者意思の形成にとっても、自由にとっても、危険である。 (エ) 平和的な政権交代の方法であること、すなわち、最大の投票数に支えられる選択肢(指導者ないし政策)が、より少数の投票に支えられている選択肢に平和裡に取って代わること。この点こそ、ハイエクやK. ポパーの想定する正当化理由である。従来の政治理論または公法理論は、国民主権の理論を民主制論と直接に連結して、国民が主権者である以上、実定憲法には、国民が政治的な最終的決定者となるための機構が整備されていなければならない、と説いてきた([130]参照)。これに対して、ハイエク、ポパー等の見識は、民主主義を国民主権と連結することを敢えて避けているのである。これは、民主主義をもって、被治者が治者に有効な手続的統制を加えることをいうとする現実の統治を見据えたものであって、まさに炯眼といわなければならない。 被治者が治者に対して有効な統制を加える最大の機会が選挙である。 選挙権の法的性質については後にふれるが([167]以下参照)、選挙とは機関としての国民(または主権者としての国民)の行為ではなく、各人の手続的な権利として捉えられねばならない。 もっとも、民主主義は、選挙後の平和的な政権交替の前提として、投票期において次のような条件を満たしていなければならない。 【投票期における三条件】 1. 選択肢間の選好表明、つまり投票を、最大限の構成員が遂行すること(包括度の最大化)。 2. 各個人の投票に与えられる比重は同一であること(形式的平等化の徹底)。 3. 最大多数の票によって支持された選択肢が、勝利を得た選択だと公然と声明されること。 【N. B. 10】「直接民主制」のタイプについて。 直接民主制の中にも、市民全員が集まって議案・事項につき自ら決定する場合と、受任者を決定する場合とがある。前者を「レファレンダム」(※注釈: referendum 一般的な国民[人民]投票)と呼び、後者を「プレビシット」(※注釈: plebiscite 領土帰属や統治者選択のための人民投票)と呼ぶ。 レファレンダムは、英米においては direct legislation と呼ばれることがある。これらは、多数者の選好を直截に表示する政治的意思決定方法であり、確かに民主的なやり方だといえる。が、しかし、この方法は少数となる者の自由にとって望ましくないだろう。たとえ、レファレンダムが少数者の自由に対して危険であるかどうか不問とするにしても、これは、民主主義が自由や個人の尊厳を保障する政治体制ではない、ということを我々に気づかせる材料となっているはずである。 また、プレビシットは、「英雄」の出現を待望しがちな権威主義的投票人が第二のナポレオンを選出しはしないか、と歴史的に恐れられてきた。 直接民主制、間接民主制の意義については、[162]をみよ。 [57] (五)包括度・自由度等を満たした政体を民主制という 民主主義の正当化理由もさることながら、それを制度化するに当っての条件の検討も必要である。 その検討は、R. ダールによって為された。 彼は、ポリアーキィ(※注釈: polyarchy)(民主制に最も近い「多頭制」という政体)の条件として、次の諸点を挙げている(ダール『ポリアーキー』)。 ① 選挙民となる人口(包括度)が大であること、 ② 政府に対して自由に異議申立する機会(自由度)が大であること、 ③ 市民(シティズン)には、平等で秘密の投票の機会が与えられること、 ④ 複数の競合的な政党が存在すること(ポリアーキィにとっては、二大政党制よりも、多党制が望ましい、とダールはいう)、 ⑤ 複数の政党または指導者が、投票を求めて自由に競争すること 等である。 ■第三節 憲法典の意義とその規律方式・事項 [58] (NO TITLE) 憲法典とは、国家の統治の基本的事項、つまり、constitution の内容を組織的に編纂した法典(実定法)をいう。 それを「国家のあり方を国家全体との関係において規律するところの究極的法規範」と言い換えてもよい(佐藤・20頁)。 憲法典には、日本国憲法やアメリカ合衆国憲法のような単一成文典方式と、スウェーデン、フランス第三共和国のような複数制定方式とがある。 明治憲法時代には、大日本帝国憲法と皇室典範という二つの成文成典から成る複数制定方式が採られた。 憲法典が、国家の統治の基本的事項を規制するものである以上、その規制事項としては、 (ア) 統治権を意味する主権の所在、 (イ) 統治機構(立憲主義的憲法であれば、権力分立機構)の大綱、 (ウ) 国民の主要な基本権カタログ、 を最低限その内容として取り込まなければならない。 その他、対外的独立性という意味での主権や、国家の支配権という意味での主権の及ぶ範囲(領土)等に言及している例もあるものの、これらは、国際法上決定されるものであって、国内法たる憲法典で規制しても無力である。 ■第四節 憲法典の特性 [59] (一)憲法典は統治権力の割当と制限に関する究極の法である 憲法典の特質として、通常、「法の法としての憲法」に言及され、それはさらに、①授権規範としての憲法典、②制限規範としての憲法典、③最高規範としての憲法典、に分類される(清宮Ⅰ・16~38頁)。 そのことを、ハート流にまとめれば、憲法典とは、ある実定法体系内での「確認のルール」のうち、最上位に位置するルールである、ということになろう([47]参照)。 憲法典は、統治に関する制限規範(実体規範)であると同時に、最上位の授権規範(手続規範)である。 換言すれば、憲法典は、赤裸々な政治上の事実の力によってもたらされがちな政治的秩序を、「確認のルール」のもとで統制し、なまの力である権力(power)を権威(authority)へと転化させるばかりでなく、憲法典以外の法規範に対して妥当性(validity)を付与する成文の法規範である。 [60] (ニ)憲法典自身の規範性は常に疑問視される 法規範が、妥当性と実効性とを持たなければならないとした場合、憲法典という法規範は、常に、両者について疑問視され、「憲法の規範性問題」として論議され続けている。 憲法典に規範性を持たせる一つの工夫が違憲審査制(憲法典に裁定のルールを組み入れること)である。 しかし、全ての憲法的紛争が、権威をもって最終的に裁定されるわけではなく、その制度をもってしても、規範性を確保し続けることは困難である。 [61] (三)憲法典自身の妥当性を根拠づけることは容易ではない 憲法典の妥当性について、通常は、人民の意思(合意)によって作られたことがその根拠として挙げられる。 しかし、意思の力はあくまで事実上の力であって、意思が妥当性をもたらすという保証はない(Iこの点は、憲法制定権力の性質を論ずる際に [118]~[132] で再びふれることになろう)。 たとえ社会契約に示された意思が妥当性をもたらすとしても、その妥当性は、政治的統一体の始源的権力の創出および獲得の段階についてまで言い得るに過ぎない。 始源的権力によって作り上げられた憲法典と、憲法典上の統治機構によって行使される権限の妥当性は、いまだ謎に包まれたままである(社会契約によって創出された政治的統一体と、憲法契約によって創出された権限とは、同一ではない)。 憲法典と憲法典上の統治機構の妥当性を意思に基礎づけようとする論者は、憲法典が民意を反映する統治メカニズムを組み入れていることを挙げたり(この点は、ときに「実定憲法上の構成原理としての統治制度の民主化の要請」といわれることがある [佐藤・100頁])、人民による定期的な選挙に服することを挙げたりして、その正当性を説いてきた(ロック)。 しかしながら、この説明が憲法の規範性問題の解決に成功している訳ではない。 意思を基礎とする理論は、その意思それ自体を拘束するルールを解明しない限り、意思から生ずる万能の権力を説かざるを得なくなるであろう(シュミットが述べた如く、「意欲すれば足りる」という仕儀に至る)。 憲法典の妥当性の根拠を意思以外に求める思考として、憲法典自身に授権する「根本規範」または「始源規範」を仮定するものがある。 その根本規範の妥当性は、疑問視され得ないものとして仮定されるのである。 基本法である憲法典に対して妥当性を付与するその実体は何であろうか(この点については、最高法規性を論ずる第六章の [93]~[95] で再述する)。 [62] (四)憲法典自身に実効性をもたせるために憲法典に工夫が施される 制裁規定に発する拘束力をもつのが通例である他の法令とは違って、憲法は、簡潔・大綱的でその細目と制裁方法とを下位法に委ねているために、拘束力(または実効性)をもたず、常に実効的であるとは限らない。 ケルゼン流に、拘束力をもつ法規範(「もし、・・・ならば、その場合は・・・・・・」という仮設の形で示されて、後件に制裁を用意しているもの)だけを「真正の法規範」と呼ぶとすれば、憲法は、真正の法規範ではない(ただし、彼の理論の是非をここでは問うてはいない)。 ケルゼンはこういう。 「実質的憲法の諸規範は、それを基礎として創設されたサンクションを定める諸規範との有機的な結合においてのみ法」となるのであって、憲法諸規範自体は、独立した完全な規範ではない(ケルゼン『法と国家の一般理論』240頁)。 こうした特性をもつことに着目して、憲法され自体は「直接有効な法ではない」といわれることがある(小嶋・29頁)。 アメリカ憲法典が、司法審査制を導入し、「国の最高法規」であると自ら宣言したのは、憲法典を、その内部から「直接有効な法」にしようとした試みである。 我が憲法典もこれに倣った。 それでも、その内部的装置の妥当性を根拠づける規範問題が解決されたわけではなく、またさらに、憲法典のなかには、政治的マニフェストやプログラム規定が残されていることを考慮に入れれば、すべての憲法上の規定が直接有効とされるわけでもない。 [63] (五)憲法典の特性として基礎性・大綱性をあげる見解は曖昧である その他、憲法の特質として、根本性、基礎性、大綱性等が指摘されることが多いが、いずれも不明確といわざるを得ない(例えば、美濃部『憲法撮要』71頁は、憲法とは、国家の組織および作用に関する基礎法をいうとして、基礎性の要素を、国家の領土の範囲、国民たる資格要件、国家の統治組織の大綱、国家と国民との関係に関する基礎法則をあげるが、これらの事項が基礎性という特性を有しているといえるか、疑問である)。 本書は、憲法典が「究極の確認のルール」に基礎を置きつつ、他の実定法に妥当性を付与する「確認のルール」である点にその特質をみてとる([47]参照)。 ■ご意見、情報提供 ※全体目次は阪本昌成『憲法理論Ⅰ 第三版』(1999年刊)へ。 名前 コメント
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芦部信喜『憲法 第五版』(2011年刊) 第18章 憲法の保障 p.363以下 <目次> 一 憲法保障の諸類型◆1 抵抗権 ◆2 国家緊急権 ニ 違憲審査制 三 憲法改正の手続と限界◆1 硬性憲法の意義 ◆2 憲法改正の手続(一) 国会の発議(1) 発案 (2) 審議 (3) 議決 (ニ) 国民の承認 (三) 天皇の公布 ◆3 憲法改正の限界(一) 権力の段階構造 (ニ) 人権の根本規範性 (三) 前文の趣旨 (四) 平和主義・憲法改正手続 ◆4 憲法の変遷 一 憲法保障の諸類型 憲法は、国の最高法規であるが、この憲法の最高法規性は、ときとして、法律等の下位の法規範や違憲的な権力行使によって脅かされ、歪められるという事態が生じる。 そこで、このような憲法の崩壊を招く政治の動きを事前に防止し、または、事後に是正するための装置を、あらかじめ憲法秩序の中に設けておく必要がある。 その装置を、通常、憲法保障制度と言う。 憲法保障制度を大別すると、 ① 憲法自身に定められている保障制度と、 ② 憲法には定められていないけれども超憲法的な根拠によって認められると考えられる制度 がある。 ①の例を日本国憲法で示すと、憲法の最高法規性の宣言(98条)、公務員に対する憲法尊重擁護の義務づけ(99条)、権力分立制の採用(41条・65条・76条)、硬性憲法の技術(96条)などのほか、事後的救済としての違憲審査制(81条)がある。 ②の例としては、抵抗権と国家緊急権が挙げられる。 その他に、法律レベルでも、刑法の内乱罪(77条)、破壊活動防止法等の規定により、憲法秩序の維持が図られている。 以下、まず②を概説し、①については、世界的に最も重要な憲法保障制度となった違憲審査制の意義と機能を検討し、憲法改正の問題を扱うことにしたい。 ◆1 抵抗権 国家権力が人間の尊厳を侵す重大な不法を行った場合に、国民が自らの権利・自由を守り人間の尊厳を確保するため、他に合法的な救済手段が不可能となったとき、実定法上の義務を拒否する抵抗行為を、一般に抵抗権と言う。 抵抗権の考えは古くからあり、人権思想の発達に大きな役割を演じたが、それが実際に重要な意味をもったのは近代市民革命の時代であった。 自然権の思想と結び合って、「圧制への抵抗」の権利が強調され、若干の人権宣言の中にも謳われた(1789年・1793年のフランス人権宣言参照)。 その後、近代立憲主義の進展とともに、憲法保障制度が整備され、抵抗権は人権宣言から姿を消してしまう。 それは、抵抗権が本来、個人の権利・自由として実定化されることに馴染まない性格をもっているからである。 確かに、第二次世界大戦時におけるファシズムの苦い経験を経て、戦後、抵抗権思想が復活し、それを再び人権宣言の中に規定する憲法も現れるようになったが、それは本来の抵抗権をすべてカバーするものではない。 抵抗権の本質は、それが非合法的であるところにあり、制度化に馴染まないと解される。 一定の内容の実定化が可能であるにとどまる。 日本国憲法が国民の抵抗権を認めているかどうかは、抵抗権の意味・性格をどのように理解するか、とくに抵抗権は自然法上の権利か実定法上の権利か、という難しい問題と関わるので、簡単に結論を出すことは出来ない。 基本的人権を国民は「不断の努力によつて」保持しなくてはならないこと(12条)から、ただちに実定法上の権利としての抵抗権を導き出すことは、きわめて困難であるが、憲法は自然権を実定化したと解されるので、人権保障規定の根底にあって人権の発展を支えてきた圧政に対する抵抗の権利の理念を読みとることは、十分に可能である。 ◆2 国家緊急権 戦争・内乱・恐慌・大規模な自然災害など、平時の統治機構をもっては対処できない非常事態において、国家の存立を維持するために、国家権力が、立憲的な憲法秩序を一時停止して非常措置をとる権限を、国家緊急権と言う。 この国家緊急権は、一方では、国家存亡の際に憲法の保持を図るものであるから、憲法保障の一形態と言えるが、他方では、立憲的な憲法秩序を一時的にせよ停止し、執行権への権力の集中と強化を図って危機を乗り切ろうとするものであるから、立憲主義を破壊する大きな危険性をもっている。 従って、実定法上の規定がないても、国家緊急権は国家の自然権として是認される、とする説は、緊急権の発動を事実上国家権力の恣意に委ねることを容認するもので、過去における緊急権の濫用の経験に徴しても、これをとることはできない。 超憲法的に行使される非常措置は、法の問題ではなく、事実ないし政治の問題である。 この点で、自然権思想を推進力として発展してきた人権、その根底にあってそれを支えてきた抵抗権と、性質を異にする。 そこで、19世紀から20世紀にかけての西欧諸国では、非常事態に対する措置をとる例外的権力を実定化し、その行使の要件等をあらかじめ決めておく憲法も現れるようになった。 それには、 ① 緊急権発動の条件・手続・効果などについて詳細に定めておく方式と、 ② その大綱を定めるにとどめ、特定の国家機関(例、大統領)に包括的な権限を授権する方式 の二つがある。 しかし、危険を最小限度に抑えるような法制化はきわめて困難であり、二つの方式のいずれも、多くの問題点と危険性を孕(はら)んでいる。 とくに②は、濫用の危険が大きい(例、ワイマール憲法48条の定める大統領の非常措置権)。 我が国では、明治憲法は緊急権に関する若干の規定を設けていたが(8条の緊急命令の権、14条の戒厳宣告の権、31条の非常大権など)、日本国憲法には、国家緊急権の規定はない。 ニ 違憲審査制 (省略) 三 憲法改正の手続と限界 ◆1 硬性憲法の意義 憲法には、高度の安定性が求められるが、反面において、政治・経済・社会の動きに適応する可変性も不可欠である。 この安定性と可変性という相互に矛盾する要請に応えるために考案されたのが、硬性憲法(rigid constitution)の技術、すなわち、憲法の改正手続を定めつつ、その改正の要件を厳格にするという方法である。 これは、最高法規たる憲法を保障する制度として、重要な意義を有する。 ただ、国家によって事情は異なるが、あまり改正を難しくすると、可変性がなくなり、憲法が違憲的に運用される恐れが大きくなるし、反対に、あまり改正を容易にすると、憲法を保障する機能が失われてしまう。 日本国憲法は、「この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない」とし、国民による承認は国民投票において、「その過半数の賛成を必要とする」と定める(96条)。 「各議院の総議員の三分の二以上の賛成」と、国民投票における「過半数の賛成」という要件は、他国に比べて、硬性の度合が強い。 ◆2 憲法改正の手続 憲法の改正は、国会の発議、国民の承認、天皇の公布という三つの手続を経て行われる。 (一) 国会の発議 ここに「発議」とは、通常の議案について国会法などで言われる発議(それは原案を提出することを意味する)とは異なり、国民に提案される憲法改正案を国会が決定することを言う。 (1) 発案 憲法改正を発議するには、改正案が提示されなければならない。 この原案を提出する権能(発案権)が各議員に属することは言うまでもないが(通常の議案の場合は、国会法56条1項により、衆議院では20人以上、参議院では10人以上の賛成を要するが、憲法改正案についてはとくに要件を加重することも考えられる〔2007年の国会法改正で68条の2が追加され、「衆議院においては議員100人以上、参議院においては議員50人以上の賛成を要する」ことになった〕、内閣にも存するか否かについては、争いがある。 肯定説は、「国会の発議」は発案権者が議員に限られることを当然には意味しないこと、内閣の発案権を認めても国会審議の自主性は損なわれず、またそれは、議院内閣制における国会と内閣との「協働」関係からみて不思議なことではないこと、などを理由とする。 これに対して否定説は、憲法改正は国民の憲法制定権力(制憲権とも言う)の作用であるから、国民の最終的決定の対象となる原案の内容を確定する行為(憲法で言う「発議」)を国会が行うのは、制憲権思想からいって当然の理であり、この理を貫けば、「発議」の手続の一部をなすとも考えられる「発案」すなわち原案提出権は、議員のみに属すると解するのが憲法の精神に合致すること、内閣に発案権を認めても国会の自主的審議権が害されることはないとはいえ、改正案の提出権を法律案の提出権と同じに考えるのは、憲法と法律との形式的・実質的な相違を曖昧にする解釈であること、などを理由とする。 いずれの解釈が妥当か、俄かに断じ難い。 そのため、「憲法の本旨は、内閣の発案を認めるかどうかは、国会の意思による法律に委ねるという程度のものと解する」説にも、一理ある。 ただし、仮に否定説が妥当だとしても(私見はそれに傾くが)、内閣は実際には議員たる資格をもつ国務大臣その他の議員を通じて原案を提出することができるので、内閣の発案権の有無を論議する実益は乏しい。 (2) 審議 憲法・国会法に特別の規定がないので、審議の手続は法律案の場合に準じて行うことができると解される〔(現在は、国会法が改正され、第六章の2「日本国憲法改正の発議」、第11章の2「憲法審査会」、86条の2「憲法改正原案に関する両院協議会」が追加されている)〕。 ただ、定数足については、慎重な審議を要する案件であることに鑑み、総議員の三分の二以上の出席が必要ないし望ましいとする説が有力である。 しかし、三分の一以上とするか三分の二以上とするかは、法律の定めるところに委ねられていると解されるので、特別の規定がない以上は三分の一以上で足りる。 審議にあたり、国会が原案を自由に修正できることは、言うまでもない。 (3) 議決 各議院において、それぞれ総議員の三分の二以上の賛成を必要とする「総議員」の意味については、法定議員数か現在議員数か二説あるが、定数から欠員を差し引いた数と解する後説が妥当であろう。 両議院で三分の二以上の賛成が得られたとき、国会の発議が成立する。 議決のほかに、発議および国民に対する提案という特別の行為は必要とされない。 (ニ) 国民の承認 憲法改正は、国民の承認によって成立する。 この承認は、「特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票」によって行われる。 承認の要件とされる「過半数」の意味については、争いがあるが、有効投票の過半数と解するのが妥当であろう。 法律により投票総数の過半数と定めることも可能と解される。 このような国民投票による憲法改正決定の方式は、国民主権の原理と最高法規としての憲法の国民意思による民主的正当化の要請とを確保する最も純粋な手段と言うことができる。 もっとも現在まだ憲法改正国民投票法は制定されていない(*)(†)。 (*) 国民投票法の問題点 第一は、投票方法である。同時に多くの改正案が発議される場合は、相互に不可分の関係にあるものを一括して記載することが必要であろう。第二は、承認の効力発生時期である。投票の効力を争う訴訟の出訴期間経過後、その間に訴訟があれば判決確定後、投票の結果が確定すると考えるのが妥当であろう。 (†) 国民投票法(正式名は「日本国憲法の改正手続に関する法律」)が2007年に制定され、3年後の2010年5月18日に施行された。それによると、国会による改正の発議がなされると、その後60日から180日の間に国民投票が行われる(同2条1項)。その間に国民への広報事務を担当する機関として国会に国民投票広報協議会が設置される(国会法102条の11、国民投票法11条以下)。改正案に対する賛成・反対の「国民投票運動」は、選挙運動と比較すると相当規制が緩和されており、文書図書の規制、運動費用の規制、戸別訪問やインターネット上の運動の禁止もないが、公務員による運動や放送広告による運動は規制される。改正原案の発議は「内容において関連する事項ごとに区分して行う」(国会法68条の3)ことになっており、区分された案につき個別的に国民投票を行うことになる。そして、投票総数の二分の一を超えたとき国民の承認があったとされる(国民投票法126条1項)が、その場合の投票総数とは「憲法改正案に対する賛成の投票の数及び反対の投票の数を合計した数」(同98条2項)とされている。承認の通知を受けると総理大臣は直ちに公布の手続きをとる(同126条2項)。公布を行うのは天皇である(憲法7条1号)。国民投票に関し異議のある投票人は30日以内に東京高裁に訴訟を提起できるが(国民投票法127条)、訴訟の提起があっても国民投票の効力は停止しない(同130条)。なお、投票権者は「年齢満18年以上の者」(同3条)とされているが、そのために必要な法制上の措置がとられないかぎり(現時点でまだとられていない)、20歳以上の者とされている(同附則3条)。 (三) 天皇の公布 公布は「国民の名」で行われる。 これは、改正権者である国民の意思による改正であることを明らかにする趣旨である。 また、「この憲法と一体を成すものとして」とは、改正条項が「日本国憲法と同じ基本原理のうえにたち、同じ形式的効力をもつもの」であることを示す、と解する説が妥当であろう。 アメリカ合衆国憲法と同じ増補の方式を要求する趣旨だという特別の意味は、そこには含まれていない。 全部改正も、憲法改正権の限界を逸脱するものでないかぎり、必ずしも排除されているわけではないと解される。 ◆3 憲法改正の限界 このような憲法改正手続に従えば、いかなる内容の改正を行うことも許されるかと言えば、けっしてそうではない。 この問題は、憲法、人権、国民主権等の本質をどのように考えるか、という憲法の基礎理論と密接に関連する。 我が国では、国民の主権は絶対的である(制憲権は全能であり、改正権はその制憲権と同じである)と考える理論、ないし憲法規範には上下の価値の序列を認めることは出来ないと考える理論に基づいて、憲法改正手続によりさえすれば、いかなる内容の改正も法的に許されると説く無限界説もある。 しかし、法的な限界が存するとする説が通説であり、かつ、それが妥当と解される。 この限界説の論拠として説かれている理由で重要なものは、次の二つである。 (一) 権力の段階構造 民主主義に基づく憲法は、国民の憲法制定権力(制憲権)によって制定される法である。 この制憲権は、憲法の外にあって憲法を作る力であるから、実定法上の権力ではない。 そこで、近代憲法では、法治主義や合理主義の思想の影響も受けて、制憲権を憲法典の中に取り込み、それを国民主権の原則として宣言するのが、だいたいの例となっている。 また、その思想は、憲法改正を決定する最終の権限を国民(有権者)に与える憲法改正手続規定にも、具体化されている(日本国憲法96条の定める国民投票制はその典型的な例である)。 憲法改正権が「制度化された憲法制定権力」とも呼ばれるのは、そのためである。 このように、改正権の生みの親は制憲権であるから、改正権が自己の存立の基盤とも言うべき制憲権の所在(国民主権)を変更することは、いわば自殺行為であって理論的には許されない、と言わなければならない。 (ニ) 人権の根本規範性 近代憲法は、本来、「人間は生まれながらにして自由であり、平等である」という自然権の思想を、国民に「憲法を作る力」(制憲権)が存するという考え方に基づいて、成文化した法である(第一章四2参照)。 この人権(自由の原理)と(一)にふれた国民主権(民主の原理)とが、ともに「個人の尊厳」の原理に支えられ不可分に結び合って共存の関係にあるのが、近代憲法の本質であり理念である(第三章一2参照)。 従って、憲法改正権は、このような憲法の中の「根本規範」とも言うべき人権宣言の基本原則を改変することは、許されない(前頁の図を参照)。 もっとも、基本原則が維持されるかぎり、個々の人権規定に補正を施すなど改正を加えることは、当然に認められる。 (三) 前文の趣旨 日本国憲法は、前文で、人権と国民主権を「人類普遍の原理」だとし、「これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する」と宣言している。 これは、ただ政治的希望を表明したものではなく、以上のような、憲法改正に法的な限界があるという理論を確認し、改正権に対して注意を促す意味をもっている。 ドイツ連邦共和国憲法が、国民主権と人権の基本原則に影響を及ぼす改正は許されないと定め(79条)、フランス第五共和制憲法が、共和政体を改正することはできないと定めている(89条)のも、同じ趣旨である。 (四) 平和主義・憲法改正手続 改正権に限界があるとすると、国内の民主主義(人権と国民主権)と不可分に結び合って近代公法の進化を支配してきた原則と言われる国際平和の原理も、改正権の範囲外にあると考えなくてはならない。 もっとも、それは、戦力不保持を定める9条2項の改正まで理論上不可能である、ということを意味するわけではない(現在の国際情勢で軍隊の保有はただちに平和主義の否定につながらないから)、と解するのが通説である。 なお、憲法96条の定める憲法改正国民投票制は、国民の制憲権の思想を端的に具体化したものであり、これを廃止することは国民主権の原理を揺るがす意味をもつので、改正は許されないと一般に考えられている。 ◆4 憲法の変遷 憲法の保障にとってきわめて重要な問題は、憲法規範は改正されないのに、その本来の意味が国家権力による運用によって変化することである。 もっとも、憲法も変転する社会の動態の下で「生ける法」であるから、憲法規範の本来の意味に変化が起こり、その趣旨・目的を拡充させるような憲法現実が存在すること、これは当然の現象で、とくに問題とする必要はない。 問題は、規範に真正面から反するような現実が生起し、それが、一定の段階に達したとき、規範を改正したのと同じような法的効果を生ずると解することができるかどうか、《そういう意味の》「憲法の変遷」が認められるか、ということである。 これについては、 ① 一定の要件(継続・反復および国民の同意等)が充たされた場合には、違憲の憲法現実が法的性格を帯び、憲法規範を改廃する効力をもつと解する説と、 ② 違憲の憲法現実は、あくまでも事実にしかすぎず、法的性格をもち得ないと解する説 とが、厳しく対立している。 基本的には②説の立場をとりながら、《政治的な》ルール(これをイギリス法に倣って憲法の習律〔convention〕と言ってもよい)として国家機関(議会・内閣)を拘束する一種の弱い法的性格をもつことを認める考え方もある、 およそ、法が法としての効力をもつには、国民を拘束し、国民に遵守を要求する「拘束性」の要素と、現実に守られていなければならないとする「実効性」の要素が必要である。 憲法変遷を肯定する説のうち問題であるのは、実効性が失われた憲法規範はもはや法とは言えない、という立場をとるものである。 しかし、いかなる段階で実効性が消滅したと解することができるのか、その時点を適切に捉えることは容易ではない。 また、実効性が大きく気傷つけられ、現実に遵守されていなくとも、法として拘束性の要素は消滅しないと解することは可能であり、将来、国民の意識の変化によって、仮死の状態にあった憲法規定が息を吹きかえすことはあり得る。 ①説の理論を安易に肯定することはできない。
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※ナショナリズムは一般に以下の3段階で発展すると考えると理解し易い。 Ⅰ.解放的ナショナリズム(パトリオティズム) → Ⅱ.国民国家の成立 → Ⅲ.拡張的(排外的・侵略的)ナショナリズム(ジンゴイズム/ショーヴィニズム) 主に他国や他民族の抑圧に対して、①国家・国民形成を図りつつ、②政治的あるいは経済的自決(民族自決)を求める動き※政治的・経済的自決を求めることから、この段階のナショナリズムは自由主義と親和的である。 → 国家の要請に適った国民を育成するために、①統一的・画一的な国民教育の実施、②歴史・文化の共有化、③「伝統の創造」(※)といった公定ナショナリズムとでも言うべき諸政策が政府主導で実施される。※英歴史学者ホブズボームの用語で、正統性に問題のある新興国家の政府が行いがちな一種のご都合主義的な「伝統」価値の捏造 → 増大していく大衆の自尊感情の現れとしてのナショナリズム(大衆の自己崇拝、ナショナリズムの市民宗教化)。Ⅱ.の公定(=官製)ナショナリズムの結果、政府当局のコントロールが効かない状態にまで大衆の自尊感情が昂進してしまった状態。 少数エリ-トの自覚的な活動(市民型ナショナリズムcivic nationalism)として始まり、次第に参加者を拡大していく → 国民の政治参加の意欲が高まる結果、大衆デモクラシーが成立するが、次第に衆愚化していく傾向を免れない。 → 理性よりも大衆の無定見な民族感情に流され易くなり(民族型ナショナリズム ethnic nationalism)、①国内的には排外的、②対外的には侵略的傾向を強めていく結果となる。 例1 フランス革命の最初期 → フランス共和国の建設(カルノーの徴兵制etc.) → ジャコバン政権樹立以降の「革命の輸出」~ナポレオンの侵略戦争 例2 ドイツ統一運動 → ドイツ第二帝国の建設(ビスマルク時代) → ウィルヘルム2世の世界政策から第一次世界大戦へ。さらに敗戦からワイマール共和国の混迷ののちナチス政権による侵略政策の追求へ 例3 明治維新~日露戦争・不平等条約改正 → 大正デモクラシー(男子普通選挙の導入=大衆の政治参加) → 日本の場合は露骨な対外侵略の肯定という形は憚られたが、アジア諸民族と結んで白人支配を覆すという大義(=アジア主義)が利用される形で拡張的ナショナリズムが発動してしまった。 ※韓国は、Ⅱ.の行き過ぎの結果、Ⅲ.拡張的(排外的・侵略的)ナショナリズムが発動してしまった状態と解され、また中国もⅡ.を部分的ながら過激に実行した結果、Ⅲ.の歯止めが利かなくなりつつある状態と見られる。
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<目次> 原文 原文句読点かなつき 現代語訳 終わりに 軍人勅諭とは、明治十五年一月四日に明治天皇が陸海軍の軍人に下賜(かし)した勅諭です。 正式名称を「陸海軍軍人に賜はりたる勅諭」と言い、昭和二十三年六月九日に失効するまでの六十六年間に亘って帝国軍人の精神的支柱で有り続けました。 「陸海軍軍人に賜はりたる勅諭」と言う正式名称からも分かるように、当時からこの御勅諭の対象とされた人はあくまで軍人でしたが、御勅諭の精神は平成の現代に生きる一般国民にとっても日常生活の指針とすべき内容が非常に多いと思います。 それでは、「原文/原文かな句読点つき/現代語訳」の順に見ていきましょう。 原文 我國の軍隊は世々天皇の統率し給ふ所にそある昔神武天皇躬つから大伴物部の兵ともを率ゐ中國のまつろはぬものともを討ち平け給ひ高御座に即かせられて天下しろしめし給ひしより二千五百有餘年を經ぬ此間世の樣の移り換るに隨ひて兵制の沿革も亦屢なりき古は天皇躬つから軍隊を率ゐ給ふ御制にて時ありては皇后皇太子の代らせ給ふこともありつれと大凡兵權を臣下に委ね給ふことはなかりき中世に至りて文武の制度皆唐國風に傚はせ給ひ六衞府を置き左右馬寮を建て防人なと設けられしかは兵制は整ひたれとも打續ける昇平に狃れて朝廷の政務も漸文弱に流れけれは兵農おのつから二に分れ古の徴兵はいつとなく壯兵の姿に變り遂に武士となり兵馬の權は一向に其武士ともの棟梁たる者に歸し世の亂と共に政治の大權も亦其手に落ち凡七百年の間武家の政治とはなりぬ世の樣の移り換りて斯なれるは人力もて挽回すへきにあらすとはいひなから且は我國體に戻り且は我祖宗の御制に背き奉り浅間しき次第なりき降りて弘化嘉永の頃より徳川の幕府其政衰へ剩外國の事とも起りて其侮をも受けぬへき勢に迫りけれは朕か皇祖仁孝天皇皇考孝明天皇いたく宸襟を惱し給ひしこそ忝くも又惶けれ然るに朕幼くして天津日嗣を受けし初征夷大将軍其政權を返上し大名小名其版籍を奉還し年を經すして海内一統の世となり古の制度に復しぬ是文武の忠臣良弼ありて朕を輔翼せる功績なり歴世祖宗の專蒼生を憐み給ひし御遺澤なりといへとも併我臣民の其心に順逆の理を辨へ大義の重きを知れるか故にこそあれされは此時に於て兵制を更め我國の光を耀さんと思ひ此十五年か程に陸海軍の制をは今の樣に建定めぬ夫兵馬の大權は朕か統ふる所なれは其司々をこそ臣下には任すなれ其大綱は朕親之を攬り肯て臣下に委ぬへきものにあらす子々孫々に至るまて篤く斯旨を傳へ天子は文武の大權を掌握するの義を存して再中世以降の如き失體なからんことを望むなり朕は汝等軍人の大元帥なるそされは朕は汝等を股肱と頼み汝等は朕を頭首と仰きてそ其親は特に深かるへき朕か國家を保護して上天の惠に應し祖宗の恩に報いまゐらする事を得るも得さるも汝等軍人か其職を盡すと盡さゝるとに由るそかし我國の稜威振はさることあらは汝等能く朕と其憂を共にせよ我武維揚りて其榮を耀さは朕汝等と其譽を偕にすへし汝等皆其職を守り朕と一心になりて力を國家の保護に盡さは我國の蒼生は永く太平の福を受け我國の威烈は大に世界の光華ともなりぬへし朕斯も深く汝等軍人に望むなれは猶訓諭すへき事こそあれいてや之を左に述へむ 一 軍人は忠節を盡すを本分とすへし凡生を我國に稟くるもの誰かは國に報ゆるの心なかるへき况して軍人たらん者は此心の固からては物の用に立ち得へしとも思はれす軍人にして報國の心堅固ならさるは如何程技藝に熟し學術に長するも猶偶人にひとしかるへし其隊伍も整ひ節制も正くとも忠節を存せさる軍隊は事に臨みて烏合の衆に同かるへし抑國家を保護し國權を維持するは兵力に在れは兵力の消長は是國運の盛衰なることを辨へ世論に惑はす政治に拘らす只々一途に己か本分の忠節を守り義は山嶽よりも重く死は鴻毛よりも輕しと覺悟せよ其操を破りて不覺を取り汚名を受くるなかれ 一 軍人は禮儀を正くすへし凡軍人には上元帥より下一卒に至るまて其間に官職の階級ありて統屬するのみならす同列同級とても停年に新舊あれは新任の者は舊任のものに服從すへきものそ下級のものは上官の命を承ること實は直に朕か命を承る義なりと心得よ己か隷屬する所にあらすとも上級の者は勿論停年の己より舊きものに對しては總へて敬禮を盡すへし又上級の者は下級のものに向ひ聊も輕侮驕傲の振舞あるへからす公務の爲に威嚴を主とする時は格別なれとも其外は務めて懇に取扱ひ慈愛を專一と心掛け上下一致して王事に勤勞せよ若軍人たるものにして禮儀を紊り上を敬はす下を惠ますして一致の和諧を失ひたらんには啻に軍隊の蠧毒たるのみかは國家の爲にもゆるし難き罪人なるへし 一 軍人は武勇を尚ふへし夫武勇は我國にては古よりいとも貴へる所なれは我國の臣民たらんもの武勇なくては叶ふまし况して軍人は戰に臨み敵に當るの職なれは片時も武勇を忘れてよかるへきかさはあれ武勇には大勇あり小勇ありて同からす血氣にはやり粗暴の振舞なとせんは武勇とは謂ひ難し軍人たらむものは常に能く義理を辨へ能く膽力を練り思慮を殫して事を謀るへし小敵たりとも侮らす大敵たりとも懼れす己か武職を盡さむこそ誠の大勇にはあれされは武勇を尚ふものは常々人に接るには温和を第一とし諸人の愛敬を得むと心掛けよ由なき勇を好みて猛威を振ひたらは果は世人も忌嫌ひて豺狼なとの如く思ひなむ心すへきことにこそ 一 軍人は信義を重んすへし凡信義を守ること常の道にはあれとわきて軍人は信義なくては一日も隊伍の中に交りてあらんこと難かるへし信とは己か言を踐行ひ義とは己か分を盡すをいふなりされは信義を盡さむと思はゝ始より其事の成し得へきか得へからさるかを審に思考すへし朧氣なる事を假初に諾ひてよしなき關係を結ひ後に至りて信義を立てんとすれは進退谷りて身の措き所に苦むことあり悔ゆとも其詮なし始に能々事の順逆を辨へ理非を考へ其言は所詮踐むへからすと知り其義はとても守るへからすと悟りなは速に止るこそよけれ古より或は小節の信義を立てんとて大綱の順逆を誤り或は公道の理非に踏迷ひて私情の信義を守りあたら英雄豪傑ともか禍に遭ひ身を滅し屍の上の汚名を後世まて遺せること其例尠からぬものを深く警めてやはあるへき 一 軍人は質素を旨とすへし凡質素を旨とせされは文弱に流れ輕薄に趨り驕奢華靡の風を好み遂には貪汚に陷りて志も無下に賤くなり節操も武勇も其甲斐なく世人に爪はしきせらるゝ迄に至りぬへし其身生涯の不幸なりといふも中々愚なり此風一たひ軍人の間に起りては彼の傳染病の如く蔓延し士風も兵氣も頓に衰へぬへきこと明なり朕深く之を懼れて曩に免黜條例を施行し畧此事を誡め置きつれと猶も其悪習の出んことを憂ひて心安からねは故に又之を訓ふるそかし汝等軍人ゆめ此訓誡を等閑にな思ひそ 右の五ヶ條は軍人たらんもの暫も忽にすへからすさて之を行はんには一の誠心こそ大切なれ抑此五ヶ條は我軍人の精神にして一の誠心は又五ヶ條の精神なり心誠ならされは如何なる嘉言も善行も皆うはへの裝飾にて何の用にかは立つへき心たに誠あれは何事も成るものそかし况してや此五ヶ條は天地の公道人倫の常經なり行ひ易く守り易し汝等軍人能く朕か訓に遵ひて此道を守り行ひ國に報ゆるの務を盡さは日本國の蒼生擧りて之を悦ひなん朕一人の懌のみならんや 明治十五年一月四日 御名 原文句読点かなつき 我國(わがくに)の軍隊は、世々(よよ)天皇の統率し給(たま)ふ所にぞある。昔神武天皇、躬(み)づから大伴(おほとも)物部(もののべ)の兵(つはもの)どもを率(ひき)ゐ、中國(なかつくに)のまつろはぬものどもを討(う)ち平(たいら)げ給ひ、高御座(たかみくら)に即(つ)かせられて、天下(あめのした)しろしめし給ひしより二千五百有餘年を經(へ)ぬ。此間、世の移り換(かは)るに随(したが)ひて、兵制の沿革も亦(また)屡(しばしば)なりき。古(いにしへ)は天皇躬(み)づから軍隊を率(ひき)ゐ給(たま)ふ御制にて、時ありては、皇后皇太子の代(かは)らせ給(たま)ふこともありつれど、大凡(おほよそ)兵權を臣下に委(ゆだ)ね給(たま)ふことはなかりき。中世に至りて、文武の制度、皆(みな)唐國風(からくにふう)に倣(なら)はせ給(たま)ひ、六衛府(りくゑふ)を置き、左右馬寮(さいうめれう)を建て、防人(さきもり)など設けられしかば、兵制は整(ととの)ひたれども、打續(うちつづ)ける昇平(しょうへい)に狃(な)れて、朝廷の政務も漸(やうや)く文弱(ぶんじゃく)に流れければ、兵農おのづから二(ふたつ)に分れ、右の徴兵はいつとなく壮兵の姿に變(かは)り、遂(つひ)に武士となり、兵馬の權は一向(いつかう)に武士どもの棟梁(とうりゃう)たる者に歸(き)し、世の亂(みだれ)と共に政治の大權も亦(また)其手(そのて)に落ち、凡(およそ)七百年の間、武士の政治とはなりぬ。世の様の移り換(かは)りて斯(かく)なれるは、人力(じんりき)もて挽回(ばんかい)すべきにあらずとはいひながら、且(かつ)は我(わが)國體(こくたい)に戻(もと)り、且(かつ)は我(わが)祖宗(そそう)の御制に背(そむ)き奉(たてまつ)り、浅間(あさま)しき次第(しだい)なりき。降(くだ)りて弘化(こうくゎ)嘉永(かえい)の頃より、徳川の幕府其政(まつりごと)衰(をとろ)へ、剰(あまつさへ)外國の事ども起りて、其(その)侮(あなどり)をも受けぬべき勢(いきほい)に迫りければ、朕(ちん)が皇祖(くゎうそ)仁孝天皇、皇考(くゎうこう)孝明天皇、いたく宸襟(しんきん)を惱(なやま)し給(たま)ひしこそ忝(かたじけな)くも又(また)惶(かしこ)けれ。然(しか)るに朕幼くして天津日嗣(あまつひつぎ)を受けし初(はじめ)、征夷大将軍其政權を返上し、大名小名(だいみやうしゃうみやう)其(その)版籍(はんせき)を奉還(はうくゎん)し、年を經ずして海内(くゎいだい)一統(いつとう)の世となり、古(いにしへ)の制度に復(ふく)しぬ。是(これ)文武の忠臣(ちゅうしん)良弼(りゃうひつ)ありて、朕を輔翼(ほよく)せる功績なり、歴世祖宗(れきせいそそう)の専(もっぱら)蒼生(さうせい)を憐(あはれ)み給ひし御遺澤(ごいたく)なりといへども、併(しかし)我臣民の其心に順逆の理(り)を辨(わきま)へ、大義の重きを知れるが故(ゆゑ)にこそあれ。されば此時(このとき)に於(おい)て兵制を更(あらた)め、我國の光を耀(かがやか)さんと思ひ、此(この)十五年が程に、陸海軍の制をば今の様に建定(たてさだ)めぬ。 夫(そもそも)兵馬の大權は朕が統(す)ぶる所なれば、其司々(そのつかさつかさ)をこそ臣下には任(まか)すなれ、其(その)大綱(たいこう)は朕(ちん)親(みずから)之(これ)を攬(と)り、肯(あへ)て臣下に委(ゆだ)ぬべきものにあらず。子々孫々に至るまで篤(あつ)く斯旨(このむね)を傳(つた)へ、天子(てんし)は文武の大權を掌握するの義を存(そん)して、再(ふたたび)中世以降の如(ごと)き失體(しったい)なからんことを望むなり。朕は汝等(なんじら)軍人の大元帥なるぞ。されば朕は汝等を股肱(ここう)と頼み、汝等は朕を頭首(とうしゅ)と仰(あお)ぎてぞ、其親(しん)は特に深かるべき。朕が國家を保護(ほうご)して、上天(じょうてん)の惠(めぐみ)に應(おう)じ、祖宗の恩に報(むく)いまゐらする事を得るも得ざるも、汝等軍人が其職を盡(つく)すと盡さざるとに由(よ)るぞかし。我國の稜威(みいつ)振(ふる)はざることあらば、汝等能(よ)く其(そ)の憂(うれい)を共にせよ。我武維(ぶゐ)揚(あが)りて其榮(さかえ)を耀(かがやか)さば、朕汝等と其譽(ほまれ)を偕(とも)にすべし。汝等皆其職を守り、朕と一心になりて、力を國家の保護に盡(つく)さば、我國の蒼生は永(なが)く太平(たいへい)の福を受け、我國の威烈(いれつ)は大(だい)に世界の光華ともなりぬべし。朕斯(かく)も深く汝等軍人に望むなれば、猶(なほ)訓諭(くんゆ)すべき事こそあれ。いでや之(これ)を左(さ)に述べむ。 一、軍人は忠節を盡(つく)すを本分(ほんぶん)とすべし。凡(およそ)生を我國に稟(う)くるもの、誰(たれ)かは國に報(むく)ゆるの心なかるべき。況(しか)して軍人たらん者は、此心(このこころ)の固(かた)からでは物の用に立ち得(う)べしとも思はれず。軍人にして報國(ほうこく)の心堅固(けんご)ならざるは、如何程(いかほど)技藝(ぎげい)に熟し學術に長(ちょう)ずるも、猶(なほ)偶人(ぐうじん)にひとしかるべし。其隊伍(たいご)も整(ととの)ひ節制(せっせい)も正(ただし)くとも、忠節を存(そん)せざる軍隊は、事に臨みて烏合(うごう)の衆に同(おなじ)かるべし。抑(そもそも)國家を保護(ほうご)し國權を維持するは兵力に在れば、兵力の消長は是(これ)國運の盛衰なることを辨(わきま)へ、世論(せろん)に惑(まど)はず、政治に拘(かかは)らず、只々(ただただ)一途(いっと)に己(おの)が本分の忠節を守り、義は山嶽(さんがく)よりも重く、死は鴻毛(こうもう)よりも輕(かろ)しと覺悟(かくご)せよ。其操(みさお)を破りて不覺を取り、汚名を受くるなかれ。 一、軍人は禮儀(れいぎ)を正しくすべし。凡(およそ)軍人には上(かみ)元帥より下(しも)一卒に至るまで、其間に官職の階級ありて統屬(とうぞく)するのみならず、同列同級とても停年(ていねん)に新舊(しんきう)あれば、新任の者は舊任(きうにん)の者に服從(ふくじゅう)すべきものぞ。下級のものは、上官の命(めい)を承(うけたまは)ること、實(じつ)は直(ただち)に朕が命(めい)を承(うけたまは)る義なりと心得(こころえ)よ。己(おの)が隷屬(れいぞく)する所にあらずとも、上級の者は勿論(もちろん)、停年の己(おのれ)より舊(ふる)きものに對(たい)しては、總(す)べて敬禮(けいれい)を盡(つく)すべし。又上級の者は下級の者に向ひ、聊(いささか)も輕侮驕傲(けいぶきょうごう)の振舞(ふるまい)あるべからず。公務の爲に威厳を主とする時は格別なれども、其外は務めて懇(ねんごろ)に取扱ひ、慈愛を専一と心掛(こころが)け、上下一致して王事(わうじ)に勤勞(きんろう)せよ。若(もし)軍人たる者にして禮儀を紊(みだ)り、上を敬(うや)まはず下を惠(めぐ)まずして、一致の和諧(わぎゃく)を失ひたらんには、啻(ただ)に軍隊の蠧毒(とどく)たるのみかは、國家の爲にもゆるし難(がた)き罪人となるべし。 一、軍人は武勇を尚(たつと)ぶべし。夫(そもそも)武勇は我國にては古(いにしへ)よりいとも貴(とほと)べる所なれば、我國の臣民たらんもの、武勇なくては叶(かな)ふまじ。況(しか)して軍人は、戰(いくさ)に臨み敵に當(あた)るの職なれば、片時も武勇を忘れてよかるべきか。さはあれ武勇には大勇(たいゆう)あり小勇(しょうゆう)ありて同(おなじ)からず。軍人たらむ者は常に能(よ)く義理を辨(わきま)へ、能(よ)く胆力(たんりょく)を練(ねり)り、思慮を殫(つく)して事を謀(はか)るべし。小敵たりとも侮(あなど)らず、大敵たりとも懼(おそ)れず、己が武職を盡(つく)さむこそ、誠(まこと)の大勇(たいゆう)にはあれ。されば武勇を尚(たつと)ぶものは、常々(つねづね)人に接(ふる)るには温和を第一とし、諸人の愛敬(あいけい)を得むと心掛けよ。由(よし)なき勇を好みて猛威(もうい)を振(ふる)ひたらば、果(はて)は世人(せじん)も忌み嫌いて、豺狼(さいろう)などの如(ごと)く思ひなむ。心すべきことにこそ。 一、軍人は信義を重んずべし。凡(およ)信義を守ること常(つね)の道にはあれど、わきて軍人は、信義なくては一日も隊伍(たいご)の中に交りてあらんこと難(かた)かるべし。信とは己(おの)が言(げん)を践行(ふみおこな)ひ、義とは己(おの)が分(ぶん)を盡(つく)すをいふなり。されば信義を盡(つく)さむと思はば、始(はじめ)より其事(そのこと)の成(な)し得(う)べきか得べからざるかを審(つまびらか)に思考すべし。朧氣(おぼろげ)なる事を仮初(かりそめ)に諾(うべな)ひてよしなき關係を結び、後(のち)に至(いた)りて信義を立てんとすれば、進退谷(きはま)りて身の措(お)き所に苦(くるし)むことあり。悔(く)ゆとも其詮(そのせん)なし。始(はじめ)に能々(よくよく)事の順逆(じゅんぎゃく)を辨(わきま)へ、理非(りひ)を考(かんが)へ、其言(そのげん)は所詮践(ふ)むべからずと知り、其義(そのぎ)はとても守るべからずと悟(さと)りなば、速(すみやか)に止(とど)まるこそよけれ。古(いにしへ)より或(あるい)は小節(しょうせつ)の信義を立てんとて大綱(たいこう)の順逆を誤(あやま)り、或(あるい)は公道の理非(りひ)に践迷(ふみまよ)ひて私情(しじゃう)の信義を守り、あたら英雄豪傑(えいゆうごうけつ)どもが禍(わざわひ)に遭(あ)ひ身を滅(ほろぼ)し、屍(しかばね)の上の汚名を後世まで遺(のこ)せること、其例(そのれい)尠(すくな)からぬものを。深く警(いまし)めてやはあるべき。 一、軍人は質素を旨(むね)とすべし。凡(およそ)質素を旨とせざれば、文弱(ぶんじゃく)に流れ輕薄(けいはく)に趨(はし)り、驕奢華靡(きょうしゃかび)の風を好み、遂には貪汚(たんお)に陷(おちい)りて志(こころざし)も無下(むげ)に賤(いやし)くなり、節操も武勇も其(その)甲斐(かひ)なく、世人(せじん)に爪(つま)はじきせらるる迄(まで)に至りぬべし。其身(そのみ)生涯の不幸なりといふも中々愚(をろか)なり。此風(このふう)一たび軍人の間に起こりては、彼(か)の傳染病(でんせんべう)の如(ごと)く蔓延(まんえん)し、士風も兵気も頓(とみ)に衰(おとろ)へぬべきこと明(あきらか)なり。朕深く之(これ)を懼(おそ)れて、曩(さき)に免黜(めんちゅつ)條例を施行(せこう)し、略(ほぼ)此事を誡(いましめ)め置(お)きつれど、猶(なほ)も其悪習の出(いで)んことを憂(うれ)ひて心安(こころやす)からねば、故(ゆゑ)に又(また)之(これ)を訓(おし)ふるぞかし。汝等(なんじら)軍人ゆめ此(この)訓誡(くんかい)を等閑(とうかん)にな思ひそ。 右(みぎ)の五ヶ條は、軍人たらむもの暫(いささか)も忽(おろそか)にすべからず。さて之(これ)を行(おこな)はんには、一の誠心こそ大切なれ。抑(そもそも)此(この)五ヶ條は我軍人の精神にして、一の誠心は又五ヶ條の精神なり。心誠(こころまこと)ならざれば、如何(いか)なる嘉言(かげん)も善行も皆(みな)うはべの装飾にて、何の用にかは立つべき。心だに誠あれば、何事も成るものぞかし。況(しか)してや此五ヶ條は天地の公道、人倫(じんりん)の常經(じゃうけい)なり。行(おこな)ひ易(やす)く守り易(やす)し。汝等(なんじら)軍人、能(よ)く朕(ちん)が訓(おしえ)に遵(したが)ひて此道(このみち)を守り行ひ、國に報(むく)ゆるの務(つとめ)を盡(つく)さば、日本國の蒼生(さうせい)舉(あが)りて之(これ)を悦(よろこび)びなん。朕一人(いちにん)の懌(よろこび)のみならんや。 明治十五年一月四日 御名(ぎょめい≒天皇陛下の御名前) 現代語訳 わが国の軍隊は代々天皇の統率したまう所にある。昔、神武天皇みずから大伴物部の兵たちを率い、国中の帰順せぬ者どもを討ちたいらげ、皇位につき天下を治められてから、二千五百年余りを経た。この間、世の移り変わりに従い、兵制の改革もまたしばしばであった。古くは天皇がみずから軍を率いられる制度であり、時には皇后皇太子が代ることもあったが、およそ兵権を臣下に委ねることはなかった。中世に至り、政治軍事の制度をみな唐にならわせ、六の衛府を置き左右の馬寮を建て、防人などを設けて兵制は整った。しかしうち続く平和になれ、朝廷の政務もしだいに文弱に流れたため、兵と農はおのずから二つに分かれ、古代の徴兵はいつとなく志願の姿に変わり、ついには武士となった。軍事の権限は、すべて武士たちの頭領である者に帰し、世の乱れとともに政治の大権もまたその手に落ち、およそ七百年のあいだ武家の政治となった。世のさまの移りでかくなったのは、人の力では挽回できなかったともいえるが、それはわが国体に照らし、かつわが祖先の制度に背く、嘆かわしき事態であった。 時が下って、弘化嘉永の頃から徳川幕府の政治は衰え、あまつさえ外国との諸問題が起こって国が侮りを受けかねない情勢が迫り、わが祖父仁孝天皇、先代孝明天皇をいたく悩ませられたことは、かたじけなくも又おそれ多いことであった。しかるに朕が幼くして皇位を継承した当初、征夷大将軍が政権を返上し、大名小名は版籍を奉還した。年を経ずに国内が統一され、古代の制度が復活した。これは文武の忠臣良臣が朕を補佐した功績であり、民を思う歴代天皇の遺徳であるが、あわせてわが臣民が心に正逆の道理をわきまえ、大義の重さを知っていたからこそである。そこでこの時機に兵制を改め国威を輝かすべしと考え、この十五年ほどで陸海軍の制度を今のように定めたのである。軍の大権は朕が統帥するもので、その運用は臣下に任せても、大綱は朕がみずから掌握し、臣下に委ねるものではない。子孫に至るまでこの旨をよく伝え、天皇が政治軍事の大権を掌握する意義を存続させ、再び中世以降のように、正しい体制を失うことがないよう望む。 朕は汝(なんじ)ら軍人の大元帥である。朕は汝らを手足と頼み、汝らは朕を頭首とも仰いで、その関係は特に深くなくてはならぬ。朕が国家を保護し、天の恵みに応じ祖先の恩に報いることができるのも、汝ら軍人が職分を尽くすか否かによる。国の威信にかげりがあれば、汝らは朕と憂いを共にせよ。わが武威が発揚し栄光に輝くなら、汝らは朕と誉れをともにすべし。汝らがみな職分を守り、朕と心を一つにし、国家の防衛に力を尽くすなら、我が国の民は永く太平を享受し、我が国の威信は大いに世界に輝くであろう。朕の汝ら軍人への期待は、かくも大きい。そのため、ここに訓戒すべきことがある。それを左に述べる。 一 軍人は忠節を尽くすを本分とすべし。我が国に生をうける者なら、誰が国に報いる心がないことがあろう。まして軍人となる者は、この心が固くなければ、物の役に立つとは思われぬ。軍人にして報国の心が堅固でないならば、いかに技量に練達し、また学術に優れても、なお木偶(でく)人形にひとしいのだ。隊伍整い規律正しくとも、忠節の存在しない軍隊は、有事にのぞめば烏合の衆と同じである。国家を防衛し、国権を維持するのは兵の力によるのであるから、兵力の強弱はすなわち国運の盛衰であることをわきまえよ。世論に惑わず、政治に関わることなく、ただ一途におのれの本分たる忠節を守り、義務は山より重く、死は羽毛より軽いと覚悟せよ。その志操を破り、不覚をとって汚名をうけることのないように。 一 軍人は礼儀を正しくすべし。軍人は上は元帥から下は一兵卒に至るまで、階級があって統制に属すだけでなく、同じ階級でも年次に新旧があり、年次の新しい者は、古い者に従うべきものだ。下級の者が上官の命令を受ける時には、実は朕から直接の命令を受けると同義と心得よ。自己の所属するところでなくとも、上官はもちろん年次が自己より古い者に対しては、すべて敬い礼を尽くすべし。また上級の者は下級のものに向かい、いささかも軽侮し傲慢な振るまいがあってはならぬ。公務のため威厳を主とする時は別、そのほかは努めて親密に接し、慈愛をもっぱらに心がけ、上下が一致して公務に勤めよ。もし軍人たる者で礼儀を破り、上を敬わず下をいたわらず、一致団結を失うならば、ただ軍隊の害毒であるのみか、国家のためにも許しがたき罪人である。 一 軍人は武勇を尊ぶべし。武勇は我が国において古来より尊ばれてきたところであるから、我が国の臣民たるものは、武勇なくしてははじまらぬ。まして軍人は戦闘にのぞみ、敵に当たる職務であるから、片時も武勇を忘れてよいことがあろうか。ただ武勇には大勇と小勇があり同じではない。血気にはやり、粗暴に振るまうなどは武勇とはいえぬ。軍人たるものは常によく義理をわきまえ、胆力を練り、思慮を尽くして物事を考えるべし。小敵も侮らず、大敵をも恐れず、武人の職分を尽くすことが、まことの大勇である。武勇を尊ぶ者は、常々他人に接するにあたり温和を第一とし、人々から敬愛されるよう心がけよ。わけもなく蛮勇を好み、乱暴に振舞えば、果ては世人から忌み嫌われ、野獣のように思われるのだ。心すべきことである。 一 軍人は信義を重んずべし。信義を守ることは常識であるが、とりわけ軍人は信義がなくては一日でも隊伍の中に加わっていることが難しい。信とはおのれの言葉を守り、義とはおのれの義理を果たすことをいう。従って信義を尽くそうと思うならば、はじめからその事が可能かまた不可能か、入念に思考すべし。あいまいな物事を気軽に承知して、いわれなき係わりあいを持ち、後になって信義を立てようとしても進退に困り、身の置き所に苦しむことがある。後悔しても役に立たぬ。始めによくよく事の正逆をわきまえ、理非を考えて、この言はしょせん実行できぬもの、この義理はとても守れぬものと悟ったならば、すみやかにとどまるがよい。古代から、あるいは小の信義を貫こうとして大局の正逆を見誤り、あるいは公の理非に迷ってまで私情の信義を守り、あたら英雄豪傑が災難にあって身をほろぼし、死後に汚名を後世まで残した例は少なくない。深く警戒しなくてはならぬ。 一 軍人は質素を旨とすべし。およそ質素を心がけなければ、文弱に流れ軽薄に走り、豪奢華美を好み、ついには貪官となり汚職に陥って心ざしもむげに賤しくなり、節操も武勇も甲斐なく、人々に爪はじきされるまでになるのだ。その身の一生の不幸と言うも愚かである。この風潮がひとたび軍人の中に発生すれば、伝染病のように蔓延して武人の気風も兵の意気もとみに衰えることは明らかである。朕は深くこれを危惧し、先に免点条例を施行してこの点の大体を戒めた。しかしなおこの悪習が出ることを憂慮し、心が静まらぬため又この点を指導するのである。汝ら軍人は、ゆめゆめこの訓戒をなおざりに思うな。 右の五か条は軍人たらん者は、しばしもゆるがせにしてはならぬ。これを行うには誠の一心こそが大切である。この五か条はわが軍人の精神であって、誠の心一つは、また五か条の精神なのである。心に誠がなければ、いかに立派な言葉も、また善き行いも、みな上べの装飾で何の役に立とうか。誠があれば、何事も成しとげられるのだ。ましてこの五か条は、天地の大道であり人倫の常識である。行うにも容易、守るにも容易なことである。汝ら軍人はよく朕の教えに従い、この道を守り実行し、国に報いる義務を尽くせば、朕ひとりの喜びにあらず、日本国の民はこぞってこれを祝するであろう。 明治十五年一月四日 御名 終わりに 以上が軍人勅諭です。いかがでしょうか? 特に最後の五箇条などは、「軍人は~」を「国民は~」「人間は~」等に置き換えれば良いのであって、(少なくとも日本人ならば)誰もが守るべきことで有るのではないかと思います。
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日本の政治体制・経済発展段階と共産主義者が採るべき革命方針に関して、「日本民主革命論争」「日本資本主義論争」と呼ばれる論争があったが、1932年にコミンテルン32年テーゼ(方針書)がモスクワから出され、これを遵守してブルジョア革命を目指す者を「講座派」、最初から社会主義革命を目指す者を「労農派」と区別した。 講座派は戦前・戦後を通じて日本共産党の理論家グループを構成し、労農派は戦後に発足した日本社会党の最左派・社会主義協会の理論家グループを構成した。 講座派は1936年、労農派は1937~38年にかけて一斉に検挙され、一時日本からマルクス主義者は消滅したが、その後も密かにマルクス主義の理論・方法論を摂取し、戦後にこれをベースに日本の政治・社会を「天皇制ファシズム」と断罪した丸山眞男のような隠れマルクス主義者も存在する。 以下、日本語版ブリタニカ百科事典より引用。 日本民主革命論争 日本のマルクス主義者・社会主義運動の指導者たちの間で、当面する日本革命の綱領・戦略を巡って戦わされて論争。1926年日本共産党の再建の頃から、32年テーゼの発表に至る時期まで行われたもので、日本共産党の機関紙『マルクス主義』と、山川均・猪俣津南雄らの主宰する『労農』の間でやりとりされた。主要な対立点は、当時の日本国家権力の規定すなわち、絶対主義天皇制(『マルクス主義』)か、あるいはブルジョア独裁(『労農』)かということであったが、これに関連して明治維新の歴史的評価や封建遺制の残存の有無、更には同盟軍・統一戦線の問題などが論争点となった。32年にこの論争は一応は終結するが、以降、封建論争、あるいは資本主義論争といわれる学者・理論家の経済学的分析に関する論争へと発展する。なお民主革命論争・資本主義論争を区別せず、総じて日本民主主義論争ということもある。 32年テーゼ 1932年5月コミンテルン執行委員会西ヨーロッパ・ビューローによって決定された「日本における情勢と日本共産党の任務に関する方針書」のこと。日本の支配体制を絶対主義的天皇制とみなし、来るべき日本革命は天皇制を打倒し。地主制を廃止するブルジョア民主主義革命であり、社会主義革命はその次の段階とする二段階革命論の立場を明確にした。日本では河上肇翻訳で同年7月10日『赤旗』特別号に掲載され公にされた。同種のものには27年・31年のものがある。これらのテーゼは当時の日本の経済理論・社会主義運動理論に大きな影響を与え、活発な論争を引き起こした。 日本資本主義論争 昭和初期おもにマルクス経済学者・マルクス史学者の間で行われた日本資本主義の発達と明治維新の主体及びその性質についての論争。1923年志賀義雄と赤松克麿の論争を発端とし、山川均派と渡辺政之輔、野呂栄太郎らの論戦によって本格化したものである。 1 前者(労農派)は日本における封建制は消滅し、国家権力はブルジョアジーが掌握しており、きたるべき革命は社会主義革命であるとしたのに対して、 2 後者(講座派)は封建制の残存物を重要視し、きたるべき革命をブルジョア民主主義革命であるとした。32年『日本資本主義発達史講座』の刊行に伴い、労農派と講座派の論争は多岐にわたって展開された。主なものに「小作料論争」「経済外的強制に関する論争」「マニュファクチュア論争」「明治維新に関する論争」などがある。36年講座派検挙(コム・アカデミー事件)、37~38年労農派検挙(人民戦線事件)によって論争は中断されたが、第2次世界大戦後も講座派内部での新封建論争、国家論を巡る志賀・神山論争などに両派の問題視角は継続されている。代表的論客は上記のほか、 1 労農派では猪俣津南雄、向坂逸郎、土屋喬雄らが、 2 講座派では山田盛太郎、平野義太郎らがいる。 講座派 1925~35年頃、日本資本主義の性格規定を巡って日本のマルクス経済学界を二分した「日本資本主義論争」において、日本資本主義の本質は軍事的半封建的性格にある、と主張した人々。講座派の名称は当初この派の人々が主に岩波書店刊行の『日本資本主義発達史講座』(1932~33)に自己の学説を唱えたことから発した。その代表的論客は、山田盛太郎、平野義太郎であり、それぞれの主著はのちに『日本資本主義分析』(34)、『日本資本主義社会の機構』(34)として刊行された。主な論客は他に、羽仁五郎、服部之総、山田勝次郎、大塚金之助らがいる。これに対抗したのは、向坂逸郎、伊藤好道、土屋喬雄、大内兵衛らの学者・評論家のグループ(いわゆる労農派)であったが、その論争は決着をみないまま第2次世界大戦後に持ち越され、日本共産党と日本社会党との一線を画す論点の一つとなった。 労農派 1927年に創刊された雑誌『労農』の同人またはそれを軸とするマルクス主義の一系譜で、講座派に対立した潮流をいう。第1次日本共産党の解党後、27年テーゼによる党の再建案に反対し党を離れた山川均・猪俣津南雄・荒畑寒村らは雑誌『労農』を発刊。以後日本共産党系の学者いわゆる講座派との間に日本資本主義の分析を巡って「日本資本主義論争」を展開していった。その主張は、明治維新は不徹底な面はあるがブルジョア革命であると規定し、当面する革命を社会主義革命とした。主な論客は前記3名の他に、櫛田民蔵、土屋喬雄、大内兵衛、向坂逸郎、宇野弘蔵らがいる。また代表作として、『日本資本主義の諸問題』(向坂逸郎)、『日本資本主義発達史論集』(土屋喬雄)が挙げられる。36年7月の講座派の検挙で論争は決着を見ないまま、労農派もまた翌37年12月と38年2月に一斉検挙を受けた(第1次・第2次人民戦線事件) 社会主義協会 1951年創立の社会主義理論研究集団。第2次世界大戦前の労農派グループの山川均、大内兵衛、向坂逸郎らに、太田薫、岩井章ら実践家グループも加わり、日本社会党左派の理論的支柱となった。67年、向坂協会派と太田協会派に分裂したが、向坂協会派は社青同(日本社会主義青年同盟)や労働大学を基盤に勢力を拡大、党の若手活動家を握った。68年採択の「社会主義協会テーゼ」はレーニン主義による前衛党組織を採用した。1970年代半ばから、社会党内で協会の「党中党的逸脱、共産主義的偏向」に対する反協会派の反発が強まり、78年1月の大会で協会は、「テーゼ」を「提言」と改め、また理論研究集団へと性格を変えた。
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阪本昌成『憲法理論Ⅰ 第三版』(1999年刊) 巻末 人名解説 <目次> ◆イェリネック ◆ケルゼン ◆シュミット ◆ホッブズ ◆ロック ◆ルソー ◆ダイシー ◆ハイエク ◆ハート ◆ノージック ◆ロールズ ◆モンテスキュー ■ご意見、情報提供 ◆イェリネック G. イェリネック(1851~1911):ドイツの公法学、行政法学者、国家学の集大成者。 彼は、当時の狭隘な法実証主義に反対して、法学を哲学・社会学と結合せんと目指した。 なかでも、社会学的に考察した国家を、法学的に再構成しようとした大著『一般国家学』(芦部信喜監訳、学陽書房)が、その成果である。 同著作において、彼は、社会学的国家概念と、法学的国家概念とに分けながら、国家を把握せんとした。 彼の有名な国家法人説は、この視点からの産物である。 また、その公権体系論は、人が人であること、また、人が法人において一定の地位を占めること、に応じて各種の公権を類型化したものであるが、これは、人権概念を否定する当時のドイツ国法学に対抗する理論であった。 彼は、事実学と規範学とを区別する新カント派の哲学を基礎としながらも、存在(事実)と当為(規範)とを結びつけるものを「事実的なるものの規範力」に求めた。 これが、事実の観察から規範を説く、彼の有名な「方法二元論」である。 彼の二元論は、事実と規範とを結びつける要因である社会心理的事実、すなわち、人々が事実を規範として受容すること、において一元化された理論ともなっているのである。 しかしながら、その一元化は不徹底であった。 彼の理論は、美濃部達吉に強い影響を与えた。 美濃部が、天皇機関説を提唱したのも、国家という法人における天皇の地位を解明しようとしたからである。 ◆ケルゼン H. ケルゼン(1881~1973):事実と規範とを峻別する新カント学派の哲学に依拠し、法実証主義を徹底させたオーストリーの法哲学者。「純粋法学」の創始者。その代表作に『一般国家学』(清宮四郎訳、有斐閣)がある。 彼の思索の出発点は、イェリネック批判にある。 すなわち、イェリネックのように、国家は自然の領域に存在するものとの前提にたって、それを社会学的分析対象とする視点が誤っている、とケルゼンはみたのである。 そのうえで彼は、国家は法学の対象であって、法学的にのみ把握可能であると考え、《国家とは法秩序そのものである》、と説いた。 また、新カント学派の視点を徹底させて、《規範は規範からのみ生ずる》とも主張した。 彼は、法とは権利・義務等の帰属関係を表示する特殊な規範であると捉えて、帰属関係の始源に「根本規範」を仮設した。 ケルゼンの純粋法学は、H. ヘラーによって、「国家なき国法学」と批判され、また、自然法学者によって、所与の実定法を鵜呑みにする「規範支配」の信仰を生み出した、と批判され、さらにC. シュミットによって、「規範を生み出すものを忘却している」とも批判された。 ケルゼンの理論は、宮沢俊義、清宮四郎等、戦後の我が国の指導的憲法学者に強い影響を与えたが、宮沢・清宮は、ケルゼンほど、法実証主義に徹底的にコミットした訳ではない。 ◆シュミット C. シュミット(1888~1985):ドイツの政治的憲法学者。彼は、新カント学派の方法論とは別の法哲学に依拠して、国家と法の根源を考えた。 その着想は、政治的極限状態における法と国家の役割を考えることにあった。 彼は、例外的極限状況において決断することこそ、主権者の役割であるとみなした。 すなわち、彼によれば、法秩序の究極的根拠は、主権者の決断にあるのである。 これが、彼の有名な決断主義であり、《意思の力が法を作る》とする、バリバリの法実証主義の思考である。 この思考による限り、合法性を正当性に還元すべきではなく、主権者が意欲すれば足るのである。 これが、彼の代表作『憲法理論』(尾吹善人訳、木鐸社)にみられる憲法制定権力論である。 彼は、この決断主義によって、存在と当為との溝を埋めることに成功した、と信じていたが、晩年には、決断主義が存在と当為の対立を止揚しなかった、と自己批判するに至る。 また彼は、自由主義が個人の価値を基礎とするのに対して、民主主義は全体の価値を探求するという点で、両者は両立し難い思想体系であることを説いた。 彼は、また、議会が政治的利害の妥協の場と成り下がっていることを痛烈に批判したことでも有名である(間接民主制批判)。 彼にとっては、国家と個人の間に何らの異物の存在しない、透明な統治体制こそ、理想的であった。 シュミットは、基本権の主体を個人に限定したかったために、個人以外の利益が憲法上保障されている場合、それを「制度的保障」と称したのである。 ◆ホッブズ T. ホッブズ(1588~1679):1640~60年のイギリス革命期の真っ直中に育った政治思想家。 彼は幾何学を好み、幾何学に基づいた政治学の体系を樹立したいと考えた。 その成果の一つが、1651年に出版された『リヴァイアサン』(水田洋訳、岩波文庫)である。 その著作での彼の理論は、心身の能力の平等な諸個人が自己保存権を自然権として有することから出発した。 これが、「万人の万人に対する戦い」という自然状態である。 国家は、諸個人がこの自然状態から抜け出るために考案された(社会契約という形式をとる合意によって成立する)人為的構成体である。 ホッブズは、「如何にデモクラシーは愚かであるか、それに対して、一人の人間は如何に賢明であり得るか」と確信していた。 ために、彼は、平和維持のための装置である国家において、絶対主権をもった君主が君臨する必要を説いたのであった。 もっとも、彼は、そのことから連想されるほど、保守反動の輩ではない。 一言でいえば、彼は、ラディカリストであった。 私の『憲法理論Ⅰ』は、保守反動とのラヴェルを貼られるかも知れないが、私自身は、ラディカル・リベラリストを標榜しており、その立場からすれば、ホッブズに限りない共鳴を覚えている。 以来、近代啓蒙思想家たちは、ホッブズ理論を乗り越えようとして、懸命な思索を繰り返したのである。 ◆ロック J. ロック(1632~1704):イギリスの哲学者、政治思想家。 ロックは、その代表的著作『市民政府論』(鵜飼信成訳、岩波文庫)において、ホッブズ理論を乗り越えようとした。 ロックにとって、ホッブズ理論の欠点は、絶対的主権によって諸個人の共生が初めて保存される、という点にあった。 ホッブズ理論は、人々が共に生活するに当たって、社会において労働し生産するという相互行為を見逃しているのではないか、これが、ロックの診断であった。 だからこそ、彼は、自然状態において人々が労働し、生産するためにも、「生命、自由、財産」が自然権として保障されなければならない、と強調したのである。 ロックの社会契約論は、二段階理論となっていることに、我々は注意しなければならない。 第一段階は、諸個人が契約を締結することによって「市民社会」を樹立する段階である。 第二段階は、市民社会における市民が契約によって政治権力を生み出す段階である。 「政治権力」は、統治のための「道具」として、市民が合意によって作り上げたものであるからこそ、必要とあれば、市民たちは、王の首を別の王の首に、政府を別の政府に、置き換えることが可能なのである。 その考え方が、アメリカ独立宣言に取り入れられたという事実は、余りにも有名である。 私自身は、ロックはイギリス経験論者であるというより、大陸流の超越論者に近い、と位置づけている。 ◆ルソー J. ルソー(1712~1778):フランスの文学者・政治思想家。その代表作が、『社会契約論』(桑原武夫他訳、岩波文庫) ルソー理論も、ロック等と同様に、社会契約論を説いた、と一般にいわれるが、ルソー以前の理論が、自然状態→社会状態→国家状態という二つの移行を、二段階の社会契約によって説明したのに対して(右のロックの解説をみよ)、ルソーは、社会状態から国家状態への移行を一段階の社会契約で解明しようとした。 『社会契約論』における彼の狙いは、はっきりしている。 各人が他の全ての人々と結びつきながらも、しかも、自分自身にしか服従せず、以前と同じように自由である国制の形式を解明すること、これである。 これこそが彼にとっての根本的な問題であり、社会契約がそれへの解答であった。 ところが、社会契約によって成立した国制において、誰が実際に支配すべきか、という論点でのルソーの解答は、実にナイーヴであった。 彼は、「人民」が支配すべきである、と答えた。 彼の理論において、人民は「一般意思」を具体化する単一の人格である、と単純に片付けられた。 その理論は、共産主義や社会主義を信奉する人々によって何度も援用された。 F. ハイエクや K. ポパーのような自由主義者にとって、ルソーのごとき人民主権論は、人類の歴史上、多くの不幸で破壊的な政治的効果をもたらす元凶以外の何物でもなかった。 社会科学者としてのルソーの全ての著作、『エミール』、『不平等起源論』は、私の見解とは全く相容れない。 文学者としてのルソーの作品と理解するのであれば、話は別であるが。 ◆ダイシー A. ダイシー(1835~1922):イギリスはヴィクトリア王朝期のコモン・ロー研究者。その代表的著作が『憲法序説』(伊藤正巳=田島裕訳、学陽書房)。 ダイシーは、その著書において、国会主権、法の支配、憲法習律について、理論を展開した。 その中でも、「法の支配」を論じた部分が、最も有名である(本文の[71]をみよ)。 彼の『憲法序説』は、モンテスキューの著作と同様に、あたかも聖書であるかのように、扱われた時期もあった。 ところが、彼の理論体系は、「積極国家」を擁護する多くの論者から厳しい批判を受けることとなった。 批判者によれば、ダイシー理論は確固とした体系をもっているものではなく、同書の出版時点の時代、つまり、19世紀的な消極国家に妥当した理論に過ぎない、というのである。 特に、「イギリスにはフランスのような行政法は存在しない」という彼の理論につき、批判者は、①ダイシーのフランス行政法の理解が不正確であること、②イギリスにも行政法特有の理論が認められていること、を衝いた。 確かに、本文の[72]でふれたように、ダイシーの理論は、様々な難点をもっていた。 我々の「あと知恵」に照らして批判することが許されれば、その最大の難点は、国会主権と法の支配との対抗関係を軽視した点にあった、といわざるを得ない。 国会主権とは、国会の制定する法律が基本権の内容と限界を画定できる、と承認することである。 とすれば、それは、まさに、法実証主義的な思考とならないか、と疑問視されざるを得ない。 実のところ、ダイシーは、分析法学者として著名なJ. オースティンの影響を受けていた学者であった。 彼の理論は、基本権(人権)を本来絶対的なものとみるホイッグ的自由主義とは、もともと異なっていたのである。 ◆ハイエク F. ハイエク(1899~1992):オーストリー生まれの万能の社会理論家。現代のA. スミスともいわれる人物。 ケインズ理論に反対し、「福祉国家は隷従への道」と説く。 また彼は、理性によって社会を意図的に改革する「設計主義・合理主義」に反対し、自由な人々の営為の積み重ねによって生まれ出る「自生的秩序」の価値を説いた。 市場の秩序は、まさに、個々人の行動の結果ではあるが、誰によっても事前に設計されたものではない、自生的なものである、というのである。 彼の思想体系は、『ハイエク全集』(春秋社)に集約されている。 その中でも、『自由の条件Ⅰ~Ⅲ』が有名。 もっとも、彼の思考のエッセンスを知ろうとすれば、『法・立法・自由Ⅰ』が最善である。 ハイエクは、最低限の社会保障、徴兵制を容認する点で、ノージックほどの自由至上主義者ではなく、「古典的自由主義者」とでも評しておくべきか。 彼のいう、「法/立法」、「自由主義/民主主義」、「デカルト的合理主義=大陸的啓蒙思想/反合理主義=スコットランド啓蒙思想」といった区別は、合理主義的な法学教育を受けてきた我が国の研究者・学生にとって、超刺激的である。 ハイエク理論が阪本『憲法理論Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ』の基礎となっている。 ◆ハート H. ハート(1907~1992):英米における法哲学の最高峰といってよいイギリスの法哲学者。その代表作は『法の概念』(矢崎光圀訳、みすず書房)である。 通常、ハートは「法実証主義」者である、といわれる。 しかしながら、その評価は、法実証主義の理解にもよるが、正確ではない(「法実証主義」の意味については、本文の[34]をみよ)。 ハートの法理論は、実証主義哲学を基礎としているというより、日常言語学派の哲学を基礎としたものと理解するほうがよい。 哲学は、様々な課題を対象とするが、ある時期、哲学は、哲学自身を語るための「ことば」について、その日常的な用法に目を向けて分析してみることの重要さに気づいた。 この思考が一つの学派を成し、「言語行為論」と呼ばれる学問体系になっている。 例えば、「私は、君に会うために、明日10時にここに来よう」と、私が貴方に言ったとき、その私の発言は、客観的事実を報告しているわけでもなければ、内心での主観(意思)を外部に表明しているだけでもない。 私は、そう言いながら、約束するという行為を為しているのである。 ハートの法理論は、ルールが言葉の使用の中に自生的に、すなわち、計画的に作られるわけではなく、意図しないで反復継続される行為の中にいつの間にか、生まれ出る、という視点の上に樹立されている。 この自生的なルールを、彼は「一次ルール」と呼んだ。 小さな社会においては、人々は、一次ルールに従って生活することができたのであるが、大きな社会においてはそうはいかない。 大きな社会では、《一次ルールが、この社会のルールとなっている》、と確認するためのルールが必要となる。 ここに登場してきたものが「二次ルール」である。 ある社会に一次ルールと二次ルールとが存在するとき、《そこには法体系が存在する》、とハートは言うのである。 ロックにせよ、ケルゼンにせよ、ハートにせよ、世に知られた法理論家は、例外なく、言語の哲学に関する定見を持っていた。 彼らの立場が、それぞれ異なるのは、その依拠する言語哲学の違いを反映しているのである。 読者の皆さん、言語哲学を軽んずるなかれ。 ◆ノージック R. ノージック(1938~):ハーヴァード大の哲学教授。他者に対する強制だけを排除するための強制力を独占する最小国家が、最もユートピアに近いと考える、「リバタリアン(=自由至上主義者)」の旗手。 その代表作として、福祉国家、国家による平等の実現に反対する『アナーキー・国家・ユートピア』(島津格訳、木鐸社)がある。 同書は、巧みな比喩、読者を引き込むような例を頻繁に用いながら、多くの識者が慣れ親しんできた、ステレオタイプ思考に激しく揺さぶりをかけ、全米図書賞の栄に輝いた。 先にふれたハイエクと同様、方法論的個人主義に徹する。 方法論的個人主義に徹する論者は、共通して、公共的利益、社会的利益という芒洋とした概念を徹底して疑う。 また、階級とか国民を、実体化しないのである。 もっとも、最近、彼は宗旨替えしたのか、最小国家論から撤退して、共同体主義に近づいているといわれる。 共同体主義とは、コミュニティにおいて人々が共通善に向けて献身することの中に正義は現れる、とする見解をいう。 ◆ロールズ J. ロールズ(1921~):ハーヴァード大の哲学教授。立憲国家のみならず、福祉国家の理論的正当化を、その著作『正義論』(矢島欽次監訳、紀伊国屋書店)によって、初めて完成させた哲学者。現代のカントとでもいうべき人物。 彼の『正義論』は20世紀最高の哲学書である、との評価すらみられる。 その著作は、素朴な社会契約論の弱点を回避すべく、仮想的に「始原状態」という、損得の予想のつかない状態を想定したうえで、全員が納得できる命題に到達することを説く。 全員が同意する命題こそ正義である、とする「同意(契約)理論」の旗手。 彼のいう、二つの正義原理については、本文の[90]をみよ。 彼の正義論は、英米で圧倒的な影響をもってきた功利主義の正義-その最も単純なものが、「最大多数の最大幸福」を実現することこそ、正義である、とする立場-に対抗して、それぞれの個々人が享受すべき自由は、「最大多数の最大幸福」を破って、保障されなければならない、ということを説く壮大な理論体系である。 もっとも、私自身は、ロールズ理論には、数多くの疑問を抱いている。 彼は、精神的自由や政治的自由の保障と、経済的不平等の是正(経済的弱者のための所得再分配)とが、厳しい緊張関係にあるとはみていないようである。 私のロールズ批判については、『憲法理論Ⅱ』 [32]、『憲法理論Ⅲ』 [468] をみていただきたい。 ◆モンテスキュー Ch. モンテスキュー(1689~1755):フランスの政治思想家。 彼は、人間とその社会が、歴史現象と常に緊張関係にある、とみた。 彼の代表作、『法の精神』(野田良之他訳、岩波書店)が、法を宗教、経済、人口、風土、習俗等との相互連関のなかで捉えようとしたのは、そのためであった。 従って、『法の精神』は、正統派の啓蒙思想の書というよりも、歴史哲学の書、つまりは、歴史法則を求めるための書であるといったほうがいいかも知れない。 彼の最大関心事は、ある社会における矛盾・対立のなかから、いかにして均衡が生み出されるか、という社会法則を見出すことにあった。 だからこそ、その著作が、『lois(自然法則、法)の精神』と題されたのである。 彼の発想は、今日いわれる「弁証法」的な思考といってもよいだろう。 『法の精神』は、不思議なことに、ホッブズ、ロックとは違って、社会の状態や国家の成立に何の関心も示していない。 モンテスキューにとっての主題は、成立後の国家における法、正義、権利、政体、を論ずることにあった。 同著作の最も著名な箇所が、第一部第11篇第六章の「イギリスの国制について」である。 彼は、この章において、政治的自由の保障にとって理想的な国制は「混合政体」である、と説きたかったのである。 モンテスキューをもって、民主的理論の提唱者である、と考えるとすれば、それは浅慮である。 ■ご意見、情報提供 ※全体目次は阪本昌成『憲法理論Ⅰ 第三版』(1999年刊)へ。 名前 コメント
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日本の憲法の教科書類を見ると、「法の支配」の名の下に、人権の保障や民主主義、権力分立など、望ましい政治体制が備えるべきあらゆる徳目が並べられていることが少なくありません。しかし、ここまで濃厚な意味で「法の支配」を理解してしまうと、法の支配を独立して検討の対象とする意味はほとんどないように思われます。・・・(中略)・・・。こうした「法の支配」ということばの使い方の背景には、善いことである以上は、そのすべてが予定調和して100パーセント実現できるはずだというバラ色の想定があるのではないでしょうか。私としては・・・限定的な意味での「法の支配」を議論の対象とする方が、学問のあり方としても生産的だし、こうした意味を前提としてもっぱら議論をしている諸外国の研究者と議論するときも、誤解が少なくて善いのではないかと考えます。 ~ 長谷部恭男(東大法学部教授(憲法学))『法とは何か』p.149 要旨■日本の憲法学の教科書にありがちな諸々の理想のごった煮的な意味内容ではなく、本家である英米法の本来の用法に合致した意味内容で「法の支配」という言葉を理解すべきである。 ※本ページが難しい方は、まず リベラル・デモクラシー、国民主権、法の支配をご覧下さい。 <目次> ■1.このページの目的 ■2.「法の支配」の辞書的定義・用語説明◆1.日本の辞書による定義 ◆2.英米圏の辞書による定義 ■3.「法の支配」理念の整理◆1.法価値(=正義)論の構造と「法の支配」 ◆2.「法の支配」理念整理表 ◆3.主権論と「法の支配」 ■4.(参考)「法の支配」に関する様々な見解◆1.左翼の見解(芦部信喜、高橋和之、LEC) ◆2.リベラル左派の見解(長谷部恭男) ◆3.中間派の見解(田中成明、佐藤幸治) ◆4.リベラル右派の見解(ハイエク、阪本昌成) ■5.「法の支配」とは何か(暫定的な要約) ■6.関連用語 ■7.参考図書 ■8.ご意見、情報提供 ■1.このページの目的 多くの憲法学や法理学(法哲学)の教科書では、憲法の基本原理ないし中核的法理念として「法の支配(rule of law)」という用語が強調されている。 しかし、この「法の支配」の意味内容は、論者によって全くバラバラで不明瞭であって、特に日本では「法の支配」の本家である英米圏での標準的な用法とは懸け離れた意味でこの言葉が使用されるという問題ケースが多く見受けられる。 このページでは、この「法の支配」理念について、①正義論および②主権論との関係に留意しながら整理し明晰化していく。 ※なお「概念(concept)」は「~はどうあるか」(⇒ 概念論)、「理念(ideal)」は「~はどうあるべきか」(⇒ 理念論)という意味であるが、以下の文章では両者の使い分けは厳密でないことに注意。 ■2.「法の支配」の辞書的定義・用語説明 ◆1.日本の辞書による定義 ※関連する人名を含む ほう-の-しはい【法の支配】 (rule of law) 広辞苑 イギリスの法律家コークが、国王は神と法の下にあるべきである、として、ジェームズ1世の王権を抑制して以来、「人の支配」に対抗して認められるようになった近代の政治原理。コークのいう法は、イギリスの判例法で、立法権をも抑制する点で、法治主義とは異なるが、後に法治主義と同義に用いることもある。 ほうのしはい【法の支配】 rule of law 日本語版ブリタニカ 法至上主義的な思想、原則。 (1) どんな人でも、通常裁判所が適用する法律以外のものに支配されない、あるいは、 (2) 被治者のみでなく、統治者・統治諸機関も、法の支配に服さなければならぬ、とする、「法のもとにおける統治」の原理。 イギリスの伝統に根ざす思想であり、自然法思想にも淵源をもつ、法の権力に対する優位性の主張である。 A.ダイシーは、その著『憲法入門』(1885)のなかで、①議会主権と、②法の支配、がイギリスの2大法原理である、としたが、 1 ここから、人間とその自由を権力から守るイギリス型法治主義の原則が確立され、 2 アメリカにおいては、司法権優越の原理を生んだ。 20世紀に入り、経済・社会情勢の著しい変化につれ、伝統的な法支配の原則に対するいろいろな批判も起っている。 コーク【Edward Coke】 広辞苑 イギリスの法律家。権利請願の起草者。13世紀の法律家ブラクトン(H. Bracton ~1268)の著述を引用して「法の支配」(rule of law)を説いたことでも名高い。(1552~1634) ブラクトン Bracton, Henry de 日本語版ブリタニカ [生] 1216 デボン? [没] 1268 エクスター/デボン? イギリスの法律家、裁判官。ときにはイギリスの中世で最も偉大な法律家といわれる。 本名はブラットン Braton であったが、死後ブラクトンの名で伝わる。法律家として名が現れるのは、1245年以降で、48~68年に南西諸県、ことにサマーセット、デボン、コーンウォールで巡回裁判所の判事を務めた。 ローマ法・教会法に造詣が深く、50~56年に中世イギリス法を集大成した『イギリス法律慣習法』 De Legibus et Consuetudinibus Angliae は有名。 同書中の「王もまた神と法の下にある」という言葉は、法の支配原理の象徴的言辞として、しばしば引用されている。 ※この様に日本の辞典類では「法の支配」について割と簡潔な記述しかないが、英米圏ではだいぶ認識が違っているようである。 ◆2.英米圏の辞書による定義 rule of law collins The rule of law refers to a situation in which the people in a society ①obey its laws and ②enable it to function properly. (翻訳) 法の支配とは、ある社会における人々が、①その諸法を遵守しており、かつ、②社会を適切に機能させている、状況をいう。 ※残念ながら、 Britannica Concise Encyclopedia および Oxford Dictionary of English には rule of law の項目がないため、英文wikipedia(2014.3.15時点)で代用する。 rule of law 英文wikipedia The rule of law (also known as nomocracy) primarily refers to the influence and authority of law within society, especially as a constraint upon behavior, including behavior of government officials.The phrase can be traced back to the 16th century, and it was popularized in the 19th century by British jurist A. V. Dicey. The concept was familiar to ancient philosophers such as Aristotle, who wrote "Law should govern".Rule of law implies that every citizen is subject to the law, including law makers themselves.It stands in contrast to the idea that the ruler is above the law, for example by divine right. Despite wide use by politicians, judges and academics, the rule of law has been described as "an exceedingly elusive notion" giving rise to a "rampant divergence of understandings… everyone is for it but have contrasting convictions about what it is." At least two principal conceptions of the rule of law can be identified a formalist or "thin" definition, and a substantive or "thick" definition. ① Formalist definitions of the rule of law do not make a judgment about the "justness" of law itself, but define specific procedural attributes that a legal framework must have in order to be in compliance with the rule of law. ② Substantive conceptions of rule of law go beyond this and include certain substantive rights that are said to be based on, or derived from, the rule of law. HistoryAlthough credit for popularizing the expression "the rule of law" in modern times is usually given to A. V. Dicey, development of the legal concept can be traced through history to many ancient civilizations, including ancient Greece, China, Mesopotamia, India and Rome. (1) AntiquityIn Western philosophy, the ancient Greeks initially regarded the best form of government as rule by the best man.Plato advocated a benevolent monarchy ruled by an idealized philosopher king, who was above the law. Plato nevertheless hoped that the best men would be good at respecting established laws, explaining that "Where the law is subject to some other authority and has none of its own, the collapse of the state, in my view, is not far off; but if law is the master of the government and the government is its slave, then the situation is full of promise and men enjoy all the blessings that the gods shower on a state." More than Plato attempted to do, Aristotle flatly opposed letting the highest officials wield power beyond guarding and serving the laws. In other words, Aristotle advocated the rule of law It is more proper that law should govern than any one of the citizens upon the same principle, if it is advantageous to place the supreme power in some particular persons, they should be appointed to be only guardians, and the servants of the laws.According to the Roman statesman Cicero, "We are all servants of the laws in order that we may be free." During the Roman Republic, controversial magistrates might be put on trial when their terms of office expired. Under the Roman Empire, the soverign was personally immune(legibus solutus), but those with grievances could sue the treasury. (omission) (2) Modern timesAn early example of the phrase "rule of law" is found in a petion to James Ⅰ of England in 1610, from the House of Commons Amongst many other points of happiness and freedom which your majesty s subjects of this kingdom have enjoyed under your royal progenitors, kings and queens of this realm, there is none which they have accounted more dear and precious than this, to be guided and governed by the certain rule of the law which giveth both to the head and members that which of right belongeth to them, and not by any uncertain or arbitrary form of government … In 1607, English Chief Justice Sir Edward Coke said in the Case of Prohibitions(according to his own report) "that the law was the golden met-wand and measure to try the causes of the subjects;and which protected His Majesty in safety and peace with which the King was greatly offended, and said, that then he should be under the law, which was treason to affirm, as he said; to which I said, the Bracton saith, quod Rex non debed esse sub homine, sed sub Deo et lege(That the King ought not be under any man but under God and the law.)." Meaning and Categorization of interpretationsDifferent people have different interpretations about exactly what "rule of law" means. According to political theorist Judith N. Shklar, "the phrase the rule of law has become meaningless thanks to ideological abuse and general over-use, but neverthless this phrase has in the past had specific and important meanings. Among modern legal theorists, most views on this subject fall into three general categories the formal(or "thin") approach, the substantive(or "thick") approach, and the functional approach.The "formal" interpretation is more widespread than the "substantive" interpretation. 1 Formalists hold that the law must be prospective, well-known, and have characteristics of generality, equality, and certainty. Other than that, the formal view contains no requirements as to the content of the law. This formal approach allows laws that protect democracy and individual rights, but recognizes the existence of "rule of law" in countries that do not necessarily have such laws protecting democracy or individual rights. 2 The substantive interpretations holds that the rule of law intrinsicaly protects some or all individual rights. 3 The functional interpretation of the term "rule of law", consistent with the traditonal English meaning, contrasts the "rule of law" with the "rule of man".According to the functional view, a society in which government officers have a great deal of discretion has a low degree of "rule of law", whereas a society in which government officers have little discretion has a high degree of "rule of law". The rule of law is thus somewhat at odds with flexibility, even when flexibility may be preferable. The ancient concept of rule of law can be distinguished from rule by law, according to political science professor Li Shuguang "The difference … is that, under the rule of law, the law is preeminent and can serve as a check against the abuse of power. Under rule by law, the law is a mere tool for a government, that suppresses in a legalistic fashion." (omission) (翻訳) 法の支配(それはまたノモクラシーとしても知られている)とは、第一に社会における法の影響力や権威、特に政府当局の行為を含む行為の抑制に関して謂われるものである。このフレーズは16世紀に遡ることができ、19世紀に英国の法律家A. V. ダイシーによって一般に知られるようになった。この概念は、「法が統治すべきである」と書いたアリストテレスのような古代の哲学者達にお馴染みのものだった。 法の支配は、法の作成者も含めて、全ての市民が法に従うことを含意する。それは、王権神授説の例のような、支配者は法の上位にある、とする観念とは対照的である。 政治家・判事・学者によって広く使用されているにも関わらず、法の支配は「誰もが承知するが、しかし、それが何であるかについて対照的な信念しかもっていない・・・収拾がつかないほど多様な諸理解」を惹起する「非常に捉えどころにない観念」として説明されてきた。 少なくとも法の支配について2つの主要な概念解釈(conception)を特定することが可能である:すなわち、①形式的ないし「薄い」定義と、②実質的ないし「濃い」定義、である。 ① 法の支配の形式的定義(definition)は、法の「正当性」自体を判定することはないが、ある法的枠組みが法の支配に適合するといえるために必ず保持しなければいけない特定の手続的属性を定義している。 ② 法の支配の実質的概念解釈(conception)は、それ(形式的定義)を超えて、法の支配がそれに依拠しており、その派生源となっている、ある特定の実質的諸権利を内包する。 歴史近代における「法の支配」という表現の一般的認知は通常A. V. ダイシーの功績であるが、その法的概念の発達自体は、古代ギリシア・チャイナ・メソポタミア・ローマを含む多くの古代文明の歴史上に見出すことが可能である。 (1) 古代西洋哲学では、古代ギリシアにおいて、当初は、政府の最善の形態は、最良の人物による支配だ、と見なされていた。 プラトンは、法を超越する理想的な哲人王による、慈悲深い君主制を唱導した。 プラトンは、それでもなお、最善の人物達が確立された諸法を上手く尊重していくことに期待を寄せて、以下のように解説している。 「法が他の何らかの権威に服しており、何らそれ自体の内容を持たないところでは、私見では、国家の崩壊はそう遠くない。 しかし、もし、法が政府の主人であり、政府が法の僕(しもべ)であるならば、その場合は、状況は希望に満たされており、人々は神々が国家に降り注ぐあらゆる祝福を享受する。」 プラトンの企図をさらに超えて、アリストテレスは、最高位の当局者達が法が保護し奉仕する範囲を超えて権力を行使することに、きっぱりと反対した。 すなわち、アリストテレスは、法の支配を(以下のように)唱導した。法が統治することが、市民のうちの誰(が統治すること)よりも、より適切である。 同様の原理に則り、もし、ある特定の人物達への最高権力の付与が好都合である場合には、諸法の保護者達および奉仕者達だけが、その任を与えられるべきである。 ローマの政治家キケロによれば、「我々が全員、法に奉仕するのは、我々が自由であらんが為である。」ローマ共和制の期間、嫌疑のかかった執政官達は、彼らの任期が終了したときに、たいてい査問にかけられた。 ローマ帝制下では、統治者は個人としては不可侵(無答責)であったが、しかし不平を持つ人々は国費で訴訟を起こすことが可能だった。 (中略) (2) 近代「法の支配」という文句の初期の使用例の一つは、1610年のイングランドで、庶民院がジェームズ1世に対して行った請願の中に見出される。この王国の陛下の臣民が、この王室の諸祖先・この王国の諸王・諸女王の下で享受してきた諸々の幸福と自由のあらゆる諸点の中でも、以下の事柄以上に彼ら(臣民)が愛着を示し大切に抱き続けてきたものは他にありません。すなわち、(彼らは)主長と構成員の双方に、どの権利が彼らに帰属しするかを決め与える、ある特定の「ルール・オブ・ザ・ロー(rule of the law ※原文ママ)」によって道を示され統治されるのであり、そして如何なる不確実または恣意的な形態の政府によって統治されるのではない、ということ。1607年、イングランドの主席裁判官エドワード・コーク卿は、禁止令状事件において、(彼自身の報告によれば)以下のように発言した。 「法とは、臣民達の訴訟を審理し、陛下を安全に保護するところの黄金の超越的杖であり物差しである。そして、それは陛下の安全と平和を保護する。」 それに対して国王は非常に立腹して曰く「ならば余は法の下にあるべきことになるが、その断言は反逆罪である」と。 それに応えて曰く、「ブラクトンは「quod Rex non debed esse sub homine, sed sub Deo et lege(国王は何人の下にもあるべきでないが、神と法の下にあるべきである)」と云った、と」 意味と解釈カテゴリー「法の支配」が正確には何を意味するか、について人々は全く異なった解釈を持っている。 政治理論家ジュディス・N・シュクラーによれば、「イデオロギー的誤用と一般的濫用のせいで、『法の支配』という文句は無意味なものとなったが、それにも関わらず、この文句は過去において、特有かつ重要な幾つかの意味を持ち続けてきた。」という。近代の法理論家達の間で、このテーマに関する大方の見解は3つの一般的なカテゴリーに識別される。すなわち、①形式的(ないし「薄い」)アプローチ、②実質的(ないし「濃い」)アプローチ、そして③機能的アプローチ、である。①「形式的」解釈は、②「実質的」解釈よりも、より広く受け入れられている。 1 ①形式主義者達は、法は、(a)予見可能で、(b)公知であり、そして(c)一般性/一様性/確実性という諸特性をもたねばならない、と考えている。 それ以外には、①形式的見解は、法の内実という点に関しては何の要求事項も持っていない。 この①形式的アプローチは、デモクラシーと個人の諸権利を保護する諸法を許容するが、デモクラシーや個人の諸権利を保護するそうした諸法を必ずしも持たない諸国においても「法の支配」が存在する(と想定する見解である)と受け止められている。 2 ②実質的な諸解釈は、法の支配は幾つかの、または全ての個人の諸権利を実質的に保護している、と考えている。 3 「法の支配」という用語の③機能的解釈は、伝統的な英語の意味に合致しており、「ルール・オブ・ロー(法の支配)」と「ルール・オブ・マン(人の支配)」とを対照的に説明する。③機能的見解によれば、政府職員が非常に大きな裁量権を保持している社会では「法の支配」は低い水準にあり、その一方で、政府職員が小さな裁量権しかもたない社会では「法の支配」は高い水準にあることになる。 法の支配は、このように柔軟性を持つ点で-たとえ、その柔軟性が好ましい場合があるとしても-何かしら中途半端(な言葉)である。 政治科学教授リー・シャガンによれば、「ルール・オブ・ロー(法の支配)」という古代の概念は、以下の点で「ルール・バイ・ロー(法による支配)」と区別することができる。すなわち「その違いは・・・ルール・オブ・ロー(法の支配)の下では、法は卓越しており、権力の悪用に対する歯止めとして役立てることが可能である。ルール・バイ・ロー(法による支配)の下では、法は、法的な趨勢を抑制する単なる政府の道具である。」(以下省略) ※このように英米圏では、「法の支配」について、①形式的アプローチ、②実質的アプローチ、③機能的アプローチという3様のアプローチが区別されている。このうち①②は正義論(法価値論)に関係するアプローチであり、③は主権論に関係するアプローチである。 ※以下、順に「法の支配」理念について整理していく。 ■3.「法の支配」理念の整理 ◆1.法価値(=正義)論の構造と「法の支配」 政治思想・政治哲学の根本的価値が「自由(freedom/liberty)」という言葉で表現されるように、 法思想・法哲学の根本的価値は「正義(justice)」という言葉で伝統的に表現されてきた。 そこでまず、この「正義」概念を整理し、「法の支配」理念(①形式的および②実質的アプローチ)との関係を考察していく。 ※参考ページ 正義論まとめ 「正義」とは何か ~ 法価値論まとめ+「法の支配」との関係 ほうかちろん【法価値論】legal axiology 日本語版ブリタニカ 法的な価値について考察する研究分野。法的な価値は正義という言葉で表現されることが多いから、正義論といってもよい。 古代ギリシア以来、法哲学の主要分野をなしてきたが、最近は、①規範的倫理学と、②分析的倫理学の区別に対応して、①規範的法価値論と②分析的法価値論(メタ法価値論)とが明確に区別されるようになった。 せいぎ【正義】 広辞苑 ① [荀子(正名)]正しいすじみち、人がふみ行うべき正しい道。「-を貫く」 ② [漢書(律暦志上)]正しい意義または注解。「尚書-」 ③ (justice) (ア) 社会全体の幸福を保障する秩序を実現し維持すること。プラトンは国家の各成員がそれぞれの責務を果たし、国家全体として調和があることを正義とし、アリストテレスは能力に応じた公平な分配を正義とした。近代では社会の成員の自由と平等が正義の観念の中心となり、自由主義的民主主義社会は各人の法的な平等を実現した。 これを単に形式的なものと見るマルキシズムは、真の正義は社会主義によって初めて実現されると主張するが、現在ではイデオロギーを超えた正義が模索されている。 (イ) 社会の正義に適った行為をなしうるような個人の徳性。 せいぎ【正義】justice 日本語版ブリタニカ 人間の社会的関係において実現されるべき究極的な価値。 . 善(※注: agothos, bonum, good)と同義に用いられることもあるが、 (1) 善が、主として人間の個人的態度にかかわる道徳的な価値を指すのに対して、 (2) 正義は、人間の対他的関係の規律にかかわる法的な価値を指す。 . 正義とは何か、という問題については、古来さまざまな解答が示されてきたが、一般的な価値ないし価値基準に関する見解と同様に 1 正義を客観的な実在と考える客観主義的・絶対主義的正義論と、 2 正義を主観的な確信と考える主観主義的・相対主義的正義論とに大別できよう。 法思想の領域では、だいたいにおいて、自然法論が 1 前者に、法実証主義が 2 後者に、属する。 . 従来の正義論のうちでは、アリストテレスやキケロの見解が名高く、与えた影響も大きい。 (ア) アリストテレスは、道徳と区別される正義(特殊的正義)について、①配分的正義と、②交換的正義(平均的正義、調整的正義とも訳される)とを区別し、 ① 前者は、公民としての各人の価値・功績に応じて、名誉や財貨を配分することにおいて成立し、 ② 後者は、私人としての各人の相互交渉から生じる利害を平均・調整することにおいて成立する、とした。 (イ) キケロは、この①配分的正義と同様な内容を、「各人に彼のものを」という公式で表現した。 ※サイズが合わない場合はこちらをクリック。 こうした「正義」概念に基く法理念・法思想を、英米圏では一般に「法の支配(rule of law)」と呼んでいる。 ◆2.「法の支配」理念整理表 ※サイズが合わない場合はこちらをクリック。 ◆3.主権論と「法の支配」 伝統的な意味での「法の支配」理念(③機能的アプローチ)は、「人の支配(= 特定者の意思に基く統治)」を拒絶することから、「国民主権」「人民主権」といった「主権論(= 主権者の意思に基く統治原理)」と両立しない。 ⇒ 従って、「法の支配」を認める場合は、 ① 日本国憲法の「国民主権」規定に関して、「主権者意思説」以外の立場から解釈する必要が生じ、さらに、 ② 今後目指される憲法改正ないし新憲法制定に際しては、現行憲法にあるような主権者意思としての「国民主権」を連想させる文言は厳しく排除することが望まれる。 ↓詳しい説明はここをクリックして表示/非表示切り替え +... 歴史主義・伝統主義 (英米法) 反歴史主義・リセット主義 (大陸法) 権利の本質 人間は長い歴史を通じて、社会の中で試行錯誤を繰り返しながら、社会的叡智の結晶として歴史的権利を「慣習」という形で個別に見出してきた、とする立場 人間は自然状態において、生来的に自然権(natural right)を有していたが、社会契約(social contract)を結んで自然権を一部または全部放棄し、人定法(実定法:positive law)を定めた、とする立場 法の本質 法は特定の共同体の中で人々の社会的ルールとして自生した(特定の人物の意思によらずに時間をかけて次第に生成されてきた)(法=社会的ルール説)(★注3)⇒この立場は、真の法=ノモス(個別の共同体毎に自生的に発展してきた人為的ではあるが特定の意思によらざる法)とする見解と親和的である。 法はそれを作成した主権者の意思であり命令である(法=主権者意思[命令]説)(★注1、★注2)⇒この立場には、①真の法=理性から演繹された自然法(フュシス)とする近代的自然法論、および、②真の法など存在せず主権者の意思・命令としての人為法があるのみとする純然たる法実証主義、の2通りの見解がある。 誰が法を作るのか 法は幾世代にも渡る無数の人々の叡智が積み重ねられて自生的に発展したもの(経験主義、批判的合理主義)⇒「法は“発見”するもの」⇒制憲権(憲法制定権力)を否認(特定時点の世代の人々が制定できるのは原則として「憲法典(形式憲法)」迄であって、「国制(実質憲法)」は世代を重ねて徐々に確立されていくものに過ぎない) 法は主権者の委任を受けた立法者(エリート)が合理的に設計するもの(設計主義的合理主義)⇒「法は“主権者”が作るもの」⇒制憲権(憲法制定権力)を肯定(特定時点の世代の人々は「憲法典(形式憲法)」のみならず「国制(実質憲法)」をも意図的に確立することが可能である) 補足 共同体毎に個別的→共同体に固有の「国民の権利」と「一般的自由」の二元論と親和的価値多元的・相対主義的、帰納的、保守主義・自由主義・非形而上学的な分析哲学と親和的法の支配ないし立憲主義と順接 全人類に普遍的→共同体や歴史的経緯を超える普遍的な人権イデオロギーと親和的絶対主義的(但し価値一元的な傾向と価値相対主義的な傾向との両面がある)演繹的、急進主義・全体主義・形而上学的な観念論哲学と親和的国民主権や法治主義と順接 実例 英国の不文憲法が典型例。またアメリカ憲法は意外にも独立宣言にあった社会契約説的な色彩を極力消した形で制定され歴史主義の立場に基づいて運用されてきた。大日本帝国憲法(明治憲法)も日本の歴史的伝統を重んじる形で当時としては最大限に熟慮を重ねて制定された フランスの数々の憲法、ドイツのワイマール憲法が典型例。日本国憲法は前文で「国政は、国民の厳粛な信託によるもの」とロックの社会契約説的な制定理由を明記しており、残念ながら形式上この範疇に入る(GHQ草案翻訳憲法)※但し“解釈”により日本の歴史・伝統を過剰に毀損しない慎重な運用が為されてきた 主な提唱者 コーク、ブラックストーン、バーク、ハミルトンなお第二次大戦後の代表的論者は、ハイエク、ハート ホッブズ、ロック、ルソーなお第二次大戦後の代表的論者は、ロールズ、ノージック (★注1)「法=主権者意思[命令]説」は、主権者を誰と見なすかによって以下に分類される。 ① 君主主権 君主一人が主権者。(1)社会契約説以前の王権神授説や、(2)ホッブズの社会契約説が代表例。 ② 人民主権 君主以外の人民 people が主権者であり人民は各々主権を分有し人民自らがそれを行使する(=プープル主権説)。ルソーの社会契約説が代表例。 ③ 国民主権 君主を含めて国民全員が主権者(但し左翼の多い日本の憲法学者には「君主は国民に含めない」として、実質的に人民主権と同一とする者が多い)。なお国民主権の具体的意味については、(1)最高機関意思説と、(2)制憲権(憲法制定権力)説が対立しており、さらに(2)は、 1 ナシオン主権説と 2 プープル主権説に分かれる(プープル主権説は実質的に②人民主権説)。一般的に国民主権という場合は、 1 ナシオン主権説(観念的統一体としての国民が制憲権を保有するとする説)を指す。 ④ 議会主権 英国の憲法学者A.V.ダイシーの用語で、正確には「議会における国王/女王(the king/queen in parliament)」を主権者とする。君主主権や国民主権の語を避けるために考え出された理論 ⑤ 国家主権 帝政時代のドイツで、君主を含む「国家」が主権者であるとして君主主権や国民主権の語を避けた理論。戦前の日本の美濃部達吉(憲法学者)の天皇機関説もこの説の一種である ⇒教科書は、戦後の日本は「国民主権」だが、戦前の日本は「君主主権」の絶対主義国家だった、とする刷り込みを行っている。しかし実の所は、大日本帝国憲法(明治憲法)は制定時において明確に歴史主義の立場を取っており、そもそも「xx主権」という立場(法=主権者命令説)ではなかった。強いて言えば ⑥ “法”主権 つまり「法の支配」・・・歴史的に形成された統治に関する慣習法(=国体法 constitutional law)及びそれを可能な範囲で実定化した憲法典(constitutional code)が天皇をも含めた国家の全構成員を拘束するという立場だった。 ⇒なお、大正デモクラシー期には、ドイツ法学の「⑤国家主権説」を直輸入した美濃部達吉の「天皇機関説」が通説となり、それがさらに天皇機関説事件によっていわゆる①君主主権説に転換したのは昭和10年(1935年)以降の僅か10年間である。 (★注2)「法=主権者意思[命令]説」は、法を特定の立法者/思想家の価値観(例:カントやヘーゲルのドイツ観念論的法思想や自然法論・人権論)あるいは政治イデオロギー(例:マルクス主義やナチス期ドイツ思想)に還元してしまう危険が高く、全体主義への接近を許してしまう。 ※以下、「法=主権者意思[命令]説」の法体系モデル。 ※図が見づらい場合⇒こちらを参照 ※①宮澤俊義(ケルゼン主義者)・②芦部信喜(修正自然法論者)に代表される戦後日本の左翼的憲法学は「実定法を根拠づける“根本規範”あるいは“自然法”」を仮設ないし想定するところからその理論の総てが始まるが、そのようなア・プリオリ(先験的)な前提から始まる論説は、20世紀後半以降に英米圏で主流となった分析哲学(形而上学的な特定観念の刷り込みに終始するのではなく緻密な概念分析を重視する哲学潮流)を反映した法理学/法哲学(基礎法学)分野では、とっくの昔に排撃されており、日本でも“自然法”を想定する法理学者/法哲学者は最早、笹倉秀夫(丸山眞男門下)など一部の化石化した確信犯的な左翼しか残っていない。このように基礎法学(理論法学)分野でほぼ一掃された論説を、応用法学(実定法学)分野である憲法学で未だに前提として理論を展開し続けるのはナンセンスであるばかりか知的誠実さを疑われても仕方がない行いであり、日本の憲法学の早急な正常化が待たれる。(※なお、近年の左翼憲法論をリードし「護憲派最終防御ライン」と呼ばれている長谷部恭男は、芦部門下であるが、ハートの法概念論を正当と認めて、芦部説にある自然法・根本規範・制憲権といった超越的概念を明確に否定するに至っている。) (★注3)「法=社会的ルール説」は20世紀初頭に英米圏で発展した分析哲学の成果を受けて、1960年以降にイギリスの法理学者H. L. A. ハートによって提唱され、現在では英米圏の法理論の圧倒的なパラダイムとなっている法の捉え方である。 ※以下、「法=社会的ルール説」の法体系モデル。また阪本昌成『憲法理論Ⅰ』第二章 国制と法の理論も参照。 ※サイズが画面に合わない場合はこちら及びこちらをクリック願います。 ※上記のように、ハートの法=社会的ルール説は、現実の法現象について詳細で明晰な分析モデルを提供しており、特定の価値観・政治的イデオロギーに基づく概念ピラミッドに過ぎない法=主権者意思[命令]説の法体系モデルを、その説得力において大幅に凌駕している。 ※なお、自由を巡る西洋思想の二つの潮流について詳しくは ⇒ 国家解体思想の正体 参照 ※(補足説明)ハートの法=社会的ルール説のいう「ルール(rule)」という用語は、図にあるように、①事実(外的視点からの捉え方)と②規範(内的視点からの捉え方)の二重構造(=観測者から見れば①事実(社会的事実)だが、法共同体の構成員から見れば②規範だ、という③第3のカテゴリー)になっている、という独特の意味で使用されており、①事実と②規範を峻別する方法二元論(ケルゼンら新カント学派の方法論)と大きく異なっている点に注意(→こうした①事実でもあり②規範でもある③第3のカテゴリーの導入によって、ハート理論は「単なる①事実(=認識)から、なぜ②規範(=価値判断)が生まれるのか」という難問のクリアを図っている)。 ※参考ページ 主権論と法の支配の関係 リベラル・デモクラシー、国民主権、法の支配 ■4.(参考)「法の支配」に関する様々な見解 ※整理表を作成するに当たって参照した著名論者の見解を比較します。 ◆1.左翼の見解(芦部信喜、高橋和之、LEC) 芦部信喜『憲法 第五版』(2011年刊) p.13以下 五. 立憲主義と現代国家 - 法の支配 近代立憲主義憲法は、個人の権利・自由を確保するために国家権力を制限することを目的とするが、この立憲主義思想は法の支配(rule of law)の原理と密接に関連する。 1. 法の支配 法の支配の原理は、中世の法優位の思想から生まれ、英米法の根幹として発展してきた基本原理である。それは、専制的な国家権力の支配(人の支配)を排斥し、権力を法で拘束することによって、国民の権利・自由を擁護することを目的とする原理である。 ジェイムズ一世の暴政を批判して、クック(Edward Coke, 1552-1634)が引用した「国王は何人の下にもあるべきでない。しかし神と法の下にあるべきである」というブラクトン(Henry de Bracton, ?-1268)の言葉は、法の支配の本質をよく表している。 法の支配の内容として重要なものは、現在、 ① 憲法の最高法規性の観念 ② 権力によって侵されない個人の人権 ③ 法の内容・手続の公正を要求する適正手続(due process of law) ④ 権力の恣意的行使をコントロールする裁判所の役割に対する尊重 などだと考えられている。 2. 「法の支配」と「法治国家」 「法の支配」の原理に類似するものに、《戦前の》ドイツの「法治主義」ないしは「法治国家」の観念がある。この観念は、法によって権力を制限しようとする点においては「法の支配」の原理と同じ意図を有するが、少なくとも、次の二点において両者は著しく異なる。 (一). 民主的な立法過程との関係 第一に、「法の支配」は、立憲主義の進展とともに、市民階級が立法過程へ参加することによって自らの権利・自由の防衛を図ること、従って権利・自由を制約する法律の内容は国民自身が決定すること、を建前とする原理であることが明確となり、その点で民主主義と結合するものと考えられたことである。 これに対して、戦前のドイツの法治国家(Rechtsstaat)の観念は、そのような民主的な政治制度と結びついて構成されたものではない。もっぱら、国家作用が行われる形式または手続を示すものに過ぎない。従って、それは、如何なる政治体制とも結合し得る形式的な観念であった。 (ニ). 「法」の意味 第二に、「法の支配」に言う「法」は、内容が合理的でなければならないという実質的要件を含む観念であり、ひいては人権の観念とも固く結びつくものであったことである。 これに対して、「法治国家」に言う「法」は、内容とは関係のない(その中に何でも入れることが出来る容器のような)形式的な法律に過ぎなかった。そこでは、議会の制定する法律の中身の合理性は問題とされなかったのである。 もっとも、《戦後の》ドイツでは、ナチズムの苦い経験とその反省に基づいて、法律の内容の正当性を要求し、不当な内容の法律を憲法に照らして排除するという違憲審査制が採用されるに至った。その意味で、現在のドイツは、戦前の形式的法治国家から《実質的法治国家》へと移行しており、法治主義は英米法に言う「法の支配」の原理とほぼ同じ意味をもつようになっている。 高橋和之『立憲主義と日本国憲法憲法 第3版』(2013年刊) p.24~ (イ) 法の支配 a) 「法の支配」の二つの要請 「法の支配」は「人の支配」に対する概念で、人によるその場その場の恣意的な支配を排除して、予め定められた法に基づく支配によって自由を確保することを目的とする。 法の支配により自由を実現するためには、 まず第一に、 自由を保障するような内容の法(正しい法)を制定することが必要であり、 第二に、 その法を忠実に適用し執行することが必要である。 法の忠実な執行という要請を実現するために、法を制定する権力(立法権)と執行する権力(執行権)と法の争いを裁定する権力(裁判権)を分離し異なる機関に授けるという考えが生ずるが、これが後述する権力分立の原理である。執行権は、立法権がつくった法律を忠実に解釈適用し執行していく義務を負い、忠実に執行しているかどうかが争いになったときには、裁判所が判断するという体制である。 では、正しい法の制定という要請を実現するにはどうしたらよいか。 一つは、 法律の制定に抑制・均衡(checks and balances)のメカニズムを組み込む方法がある。チェック・アンド・バランスも権力分立の内容をなすが、たとえば議会を二院制にして法律の制定には両院の合意が必要であるとしたり、国王あるいは大統領の拒否権や裁可権を認めたり、さらには、裁判所に法律の合憲性の審査権を与えたりして、複数の機関の合意と均衡が形成された場合しか法律の制定はできないようにし、このチェック・アンド・バランスによって法律の内容が行き過ぎるのを阻止し、法律の「正しさ」を確保しようとするものである。 もう一つは、 法律の制定に国民の同意を得るという方法である。これも後述の国民主権の原理と表裏の関係にある問題であるが、国民の権利を制限するような法律を制定する場合には、少なくとも国民を代表する議会の同意を必要とすることにして、法律の内容の「正しさ」を確保しようとするのである。 現実には、この二つの方法を組み合わせて、法律の内容が自由を侵害するものとならないよう配慮している。 その具体的ありようは国により異なるが、それを支えている理念は権力分立(抑制・均衡)と国民主権である。 このように、法の支配は権力分立と国民主権の原理に密接に結びついているのである。 b) 裁判所の役割 正しい法律が制定されれば、その忠実な執行を確保すればよく、このために最も重要な役割を果たすのが裁判所である。 近代において法の支配の観点から最も重視されたのは、絶対王政を倒して国王の権力を法律の下に置くことであったから、法の支配は国王のもつ執行権(行政権)を法律に従わせることの確保を中心に制度化が構想され、その結果、国王から独立の裁判所が行政の法律適合性を裁定するという体制が目指された。 この場合、この裁定の任にあたることになったのが、イギリスのように「通常裁判所」(司法裁判所あるいはコモン・ロー裁判所とも呼ばれる)のこともあれば、フランスやドイツのように、通常裁判所とは別系統の「行政裁判所」を生み出していった国もあった。 法の支配を徹底するためには、行政が法律に従っていることを確保するだけでは不十分である。 法律が憲法に違反していないかどうかを独立の裁判所が判断する制度を実現する必要がある。しかし、それが実現するのは、一般には現代に入ってからであり、近代の段階では、このような違憲審査制度は、唯一アメリカ合衆国において採用されていたにすぎない。 したがって、国民の権利が現実にどの程度保障されるかは、どのような内容の法律が制定されるかに依存することとなった。 イギリスでは、法的には国会主権の原理がとられ、法律が最高の力をもつとされたが、法思想としては中世以来の、国王も議会も拘束される「高次の法」が存在するという観念が強固に生き残り(*)、国民の権利を侵害するような法律がつくられることに阻止的に働いた。 フランスでも、国民主権の下に国民を代表する議会が優位する体制が確立し、法律(議会)が志向の力をもったが(**)、市民階級の成熟とともに選挙権が拡大され、第三共和政期には議会が国民の意思を反映するようになり、法律が国民の権利を侵害することは少なくなったといわれる。これに対し、ドイツでは、市民階級の成熟が遅れ議会が力をもつに至らず、「法律に基づく行政」の原理が法律の内容・実質を問わないものと理解されるようになり、たとえ権利を制約するような法律でも、行政がそれに従ってなされる限り、「法治国家」(Rechtsstaat)が存在するとされた。 これを「形式的法治国家」と呼んでいる。 (*)イギリスのルール・オブ・ロー(rule of law)イギリスの法の支配の特徴を定式化したダイシー(Albert Venn Dicey, 1835-1922)は、法の支配を国会主権と並ぶイギリス憲法の基本原理として提示し、この法の支配は判例法(コモン・ロー)と制定法から成る「正規の法」(regular law)の支配として確立されたと説明している。重要なのは、コモン・ローが具体的事件の中で発見された正義(理性)と観念されたのみならず、制定法も類型的事例に関して一般的抽象的に発見された正義と観念されていたということであり、法の支配が究極的には社会の中で妥当している「高次の法」の支配と考えられたことである。 (**)フランスにおける「法律適合性の原理」(principe de Legalite)1789年のフランス革命は、国民主権を宣言し、主権者国民を代表する国民議会を「主権的意思(一般意思)」の表明」としての法律の制定権者とし、執行権の役割を法律の執行に限定した。この結果、執行権の行為は厳格に法律に従うことを求められた。この原理を「法律適合性の原理」と呼び、かかる国家体制を「法律適合性国家」(Etat legal)と呼ぶ。 高橋和之『立憲主義と日本国憲法憲法 第3版』(2013年刊) p.387~ (1) 法の支配の目的と構造 法の支配は、支配者の恣意的で気まぐれな支配を意味した「人の支配」を否定するために主張された観念であった。人の支配は、権力がどのように行使されるかの予測を困難にし被治者の地位を不安定にする。 そこで、被治者の安定した地位と権利を保障することを目的に、法の支配が求められたのである。支配者の意思からは独立に予め存在する法に従って支配(権力の行使)が行われること、これが法の支配の要求であった。ゆえに、法の支配を制度として確立するためには、まず第一に、権利を保障した内容をもつ「法」の確立が必要であり、第二に、支配が法に従って行われているかどうかを裁定する中立的な機関が必要である。立憲君主政において立法権(議会)と司法権(裁判所)が君主の権力から分離・独立したのは、権利保障のための法の支配の確立という観点からはきわめて自然な展開であり、18世紀イギリスの立憲君主政がモンテスキューの三権分立論の基礎となったのもこの観点から理解できる。 国民主権モデルにおいては、この論理はさらに発展し、法の支配の制度化の論理として「法の段階構造」が形成される。 つまり、法はその定立機関との関連でいくつかの法形式に分化され、法形式間に効力の上下関係が設定されて、下位の法形式は上位の法形式に自己の根拠をもたねばならず、上位の法形式に違反してはならないとの原則が確立されるのである。日本国憲法においては、基本的には、「憲法→法律→命令(政令→府・省令、規則)」という段階構造が形成されている。 それぞれの法形式は法定立機関の違いに対応しており、下位の法形式を上位の法形式の「執行」と捉えると、法定立機関と法執行機関が分離されていることが重要である。 そして、下位の法形式が上位の法形式に違反していないかどうかを、中立的な第三者機関としての裁判所が審査することにより、法の支配の実現が期されているのである。 支配(政治)を法に服せしめるには、政治活動を法的行為・法形式へと「翻訳」しなければならない。法の言葉に移し換えることにより、政治を法の論理の中に取り込み法による枠づけが可能となるのである。 政治は、法の衣をまとい、法の段階構造の中で法の論理を使って自らを正当化しなければならず、その正当化が受け入れられうるものかどうかが中立的な裁判所により判断される。 これが法の支配の基本構造である。 それは、ある意味では、「目的-手段」思考の政治を「要件-効果」へと枠づける操作ということができよう。 LEC『C-Book 憲法Ⅰ《総論・基本的人権》』 p.35~ 法の支配 1.はじめに 定義: すべての国家権力が正しい法に拘束されるという原則 ← 人の支配 → 正しい法(正義の法)に基く支配(法の内容を問題にする) → 国民の権利、自由を保障することが目的 → 英米法系(イギリス、アメリカ)の国々で発達 2.法の支配の内容 (1) 個人の人権保障 (2) 憲法の最高法規性の承認(憲法は行政権のみならず立法権をも拘束する) (3) 手続の適正を要求する(適正手続 = due process of law) (4) 裁判所の役割の重視(最高法規性の担保) 3.日本国憲法における法の支配の現れ 「正しい法 = 憲法」によって「法の支配 = 憲法による支配」 ◆2.リベラル左派の見解(長谷部恭男) 長谷部恭男『法とは何か』(2011年刊) p.148-9 法の支配という概念もいろいろな意味で使われます。ときには、人権の保障や民主主義の実現など、あるべき政治体制が備えるべき徳目のすべてを意味する理念として用いられることもありますが、こうした濃厚な意味合いで使ってしまうと、「法の支配」を独立の議論の対象とする意味が失われます。 法の支配は人の支配と対比されます。ある特定の人(々)の恣意的な支配ではなく、法に則った支配が存在するためには、そこで言う「法」が人々の従うことの可能な法でなければなりません。そのために法が満たすべき条件として、次のようないくつかの条件が挙げられてきました。・・・(中略)・・・。こうした、法の公開性、明確性、一般性、安定性、無矛盾性、不遡及性、実行可能性などの要請が、法の支配の要請と言われるものです。 日本の憲法の教科書類を見ると、「法の支配」の名の下に、人権の保障や民主主義、権力分立など、望ましい政治体制が備えるべきあらゆる徳目が並べられていることが少なくありません。しかし、ここまで濃厚な意味で「法の支配」を理解してしまうと、法の支配を独立して検討の対象とする意味はほとんどないように思われます。・・・(中略)・・・。こうした「法の支配」ということばの使い方の背景には、善いことである以上は、そのすべてが予定調和して100パーセント実現できるはずだというバラ色の想定があるのではないでしょうか。私としては・・・限定的な意味での「法の支配」を議論の対象とする方が、学問のあり方としても生産的だし、こうした意味を前提としてもっぱら議論をしている諸外国の研究者と議論するときも、誤解が少なくて善いのではないかと考えます。 長谷部恭男『憲法 第5版』(2011年刊) p.xxx 1.2.5 法の支配 法の支配は、国家機関の行動を一般的・抽象的で事前に公示される明確な法によって拘束することにより、国民の自由を保障しようとする理念である。 △ 法の支配の内容 「人の支配」ではなく、「法の支配」を実現するためには、何よりもそれが従うことの可能な法でなければならず、法に基づいて社会生活を営むことが可能でなければならない。そのためには、①法が一般的抽象的であり、②公示され、③明確であり、④安定しており、⑤相互に矛盾しておらず、⑥遡及立法(事後立法)が禁止され、⑦国家機関が法に基づいて行動するよう、独立の裁判所によるコントロールが確立していること、が要請される(長谷部 [2000] 第10章)。このような法の支配の要請は、法令の公布に関する規定(憲法7条1号)や憲法41条の「立法」の概念、司法の独立(憲法76条以下)の他、憲法31条以下の諸規定に具体化されている(8.3.2. (3) 【法の支配との関係】 参照)。 △ 「善き法」の支配 法の支配は、「善き法」の支配と同視されることがある。 形式的法治国と実質的法治国の概念を対置し、法の支配を後者と同視する考え方もその一例である。また、個人の尊厳や基本的人権の保障、国民主権など、近代立憲主義の諸要請がすべて法の支配に含まれるとする者もいる。 しかし、このように法の支配を濃厚な意味で理解してしまえば、この概念を独立に検討する意義は失われる。 確かに、法の支配の内容とされる法の一般性・抽象性・明確性・安定性、および遡及立法の禁止は、法が法として機能するための、つまり法が人の行動の指針として機能するための必要条件である。立法が個別的にしかも事後的に為され、法の文言も不明確であり、しかも朝令暮改のありさまでは、人々は国家機関の行動について如何なる予測を立てることもできず、そのため法に従って行動することは不可能となるであろう。 しかし、人種差別立法や出版物の検閲制度を設定する法も、やはり法として機能するためには、これらの特徴を備えている必要がある。 これらの特徴はいずれもそれ自体としては、悪法の支配とも十分に両立し得る。また、前述のような法の支配の内容は、法が民主的に定められるか否かとは関係がない。 法が法として機能するために、今掲げたような幾つかの条件が必要であることが、法と道徳との必然的なつながりを意味するといわれることもあるが、これも誤りである。 切れ味の良いことがナイフの道徳性を示していないのと同様、法が法として機能するための条件を備えていることは、法の道徳性を示していない。 今述べたとおり、きわめて不道徳な目的を持つ法も、法として機能するためには、このような条件を備えていなければならない。 △ 法の支配の限界 さらに、法の支配は、法が備えるべき条件の一つに過ぎず、他の要請の前に譲歩しなければならない場合もあることに留意しなければならない。法の支配の要請がどこまで充足されるべきかは程度問題であり、個別の企業を国有化するための立法や女性のみを保護対象とする労働立法も、一般抽象性の点で悖(もと)るところがあるとしても、政府の役割の拡大した福祉国家の下においては肯認され得るであろう。 法の支配を支える根拠となる個人の自律や社会の幸福の最大化という目的自体が、国家の役割の拡大をもたらしているからである。 △ 【形式的法治国と実質的法治国】法の支配の観念と関連して、法治国(Rechtsstaat)の概念を、形式的法治国と実質的法治国の2つに区分することがある。形式的法治国論はあらかじめ定められた法形式さえ取れば人民の権利・自由を無制約に侵害できるという考え方であり、実質的法治国論は、法律の内容に一定の実質的限界があるとの考え方であるとされる。もっとも、日本のような成文の憲法典を持つ国家において、この2つを区別する意義については疑いがある。すなわち、最高法規たる憲法典に、実質的法治国概念が前提とする正しい法内容が書き込まれていない限り、その国は実質的法治国とはいえないであろうし、他方、憲法典に下位の法令が充足すべき正しい法内容がすでに書き込まれているのであれば、形式的法治国概念からしてもすべての国家機関はその正しい法内容に従って行動すべきである。両者を区別する意義があるとすれば、せいぜい憲法改正の限界についてであろう。なお、形式的法治国概念が、法の一般性・抽象性や遡及性、裁判の独立性など法の支配の要請をも否定し得る概念として理解されているのであれば、それは当然、本文で述べた法の支配とは両立し得ない。 ◆3.中間派の見解(田中成明、佐藤幸治) 田中成明『現代法理学』p.329~、P.337~ 「法の支配」は、伝統的な法的価値の中核をなすものであり、法による正義の実現の中心的目的とされてきた。 (中略) わが国における「法の支配」をめぐる最近の議論では、「法の支配」は、最も狭い意味では、英米における伝統的な「人の支配ではなく、法の支配を」という「法の支配(Rule of Law)」原理と同じものと理解されており、このような共通の理解を背景に、様々な「法の支配」論が展開されている。 そして日本国憲法の基礎にあるのはこのような英米法的な「法の支配」であり、このことは、①憲法の最高法規性の明確化、②不可侵の人権の保障、③適正手続きの保障、④司法権の拡大強化、⑤違憲審査制の確立、などのその特徴に照らして明らかであるという理解が、戦後憲法学の通説的見解である。 「法の支配」の概念や要請内容をめぐる最近の議論のいては、フラーの「合法性」概念などを中核に法の形成・実現に関する形式的・手続的要請に限定して理解する形式的アプローチと、 一定の基本権・民主制・立憲主義などの制度的要請を取り込んで理解する実質的アプローチとを対比する構図が一般的である。 (中略) 「法の支配」の概念や要請内容について、法が法であるために最低限備えるべき内在的価値である形式的正義と手続的正義の要請を中核としていることにはほとんど異論はない。 多義的・論争的となるのは、このような形式的・手続的要請を基軸に、議論領域ごとに「法の支配」が目指している価値理念と、「法の支配」を実効的に確保・実現するための具体的な制度の構成・運用原理との双方向に実質化して議論する段階で、 「法の支配」の概念や要請内容にそれらの価値理念や制度構成・運用原理をどこまで取り込むかについて、見解が分れることに起因しているとみられる。 (中略) また、正しい法や善き政治との関連づけによる実質化については、「法の支配」の正しい法や善き政治への志向性を全面的に否定するのは適切ではないけれども、「法の支配」の意義は、正しい法や善き政治の追求・実現やその手段というよりも、その追求・実現手段に一定の制度的制約を課し、甚だしく不正な法や悪い政治を排除するという消極的な規制原理というところにあるとみるべきであろう。具体的には、自由公正な市民社会の円滑な作動を確保するために、権力の恣意専断を抑止し、不当な自由の制限や理不尽な格差を排除することが「法の支配」の核心的要請であり、「法の支配」をめぐる議論を拡散させないためにも、「法の支配」の目指す価値理念については・・・(中略)・・・「消極的アプローチ」をとるのが適切であろう。 (中略) 例えば、F. A. ハイエクは、法的準則が不正義な行為を禁止する消極的なものであるだけでなく、正義の識別基準もまた消極的なものであるとして、「我々は、誤謬や不正義を絶えず排除することによってしか、真理や正義に近づくことができず、 最終的な真理や正義に我々が到達したことを確認することはできない」とする。 そして、正義の積極的な識別基準がなくとも、何が不正義かを示す消極的な基準はあるという事実は、完全に新しい法システムを構築するには不十分だとしても、現にある法をより正義に適ったものに発展させる適切な指針とはなり、重要な意義をもっていることを指摘している。 (中略) 価値観の多様化・流動化が経験的事実として存在し、実質的正義原理などの究極的価値の積極的な理論的基礎づけの可能性をめぐって見解の対立が続くなかで、法的思考における価値判断も主観的・相対的なものにすぎないと考えられがちである。 けれども、裁判において第一次的に求められる価値判断は、何が不正義かに関する消極的な判断であり、消極的アプローチが示唆しているように、 何が不正義として非難され回避されるべきかについては、何が正義かについて違憲が対立している人々の間でも、具体的判断が重なり合い、その限りでコンセンサスがみられることが一般に考えられている以上に多い。そして、裁判の手続過程が、このような社会的コンセンサスに反映された正義・衡平感覚を適切に汲み上げつつ展開されるならば、 実質的正義の実現に直接的ではなくとも間接的に貢献できる範囲は、裁判の機能の考え方次第では、意外に広いのである。 田中成明『現代法理学』 p.316~、P.327~ (L. L. フラー『法と道徳』(1964年刊) による「合法性(Legality)」の基本要請) このこと(※注:法の目的は、法外在的な実質的目的に限らない、ということ)をとりわけ強調したのは、「合法性(legality)」という一連の手続的要請を法システム自体の存立と作動に関わる内在的な構成・運用原理として提示したL. L. フラーである。彼は、法システムをもっぱら法外在的な社会的目的の実現のための手段にすぎないとみるプラグマティズム的な法道具主義が支配的であることを憂い、一般的に目的=手段関係の考察において、社会的目的を実現する制度や手続自体に内在する制約を重視すべきことを力説した。 法システムについても、合法性を「法を可能ならしめる道徳」「法内在的道徳」として、この種の内在的制約と位置づけ、この合法性が法によって実現できる実質的目的の種類を限定していることに注意を喚起している。フラーは、合法性の基本的要請として、 ①法の一般性、②公布(の事実)、③遡及法の濫用の禁止、④法律の明晰性、⑤法律の無矛盾性、⑥法律の服従可能性、⑦法の相対的恒常性、⑧公権力の行動と法律との合致 という八つを挙げているが、英米において「法の支配」の要請内容と了解されているものと大体同じと理解されている。 このような合法性は、立法者や裁判官に目的・理想を示すだけでなく、法システムの存立に不可欠な条件をも示しており、これら八つの要請のどれか一つでも全面的に損なわれると、もはや、「法」システムと呼ぶことはできず、市民の服従義務も基礎付けることができないとされる。 そして、合法性の要請は基本的に手続的なものであり、法外在的な実質的目的に対しても、たいていは中立的であるが、人間を責任を負う行為主体とみる点では中立的ではなく、 このような人間の尊厳を損なう実質的目的を法システムによって追求することは許されないと考えている。 本書でも、「法の支配」の核心的要請内容を、フラーの合法性の八原理を基軸に理解し、このような意味では法の支配をフラーの合法性概念とほぼ互換的に用い、 「司法的正義」については、このような法の支配の要請を個別的事例において具体的に確保・実現することに関わるものと理解することにしたい。 佐藤幸治『憲法 第三版』(1995年刊) p.79以下 従って、日本国憲法が定める具体的な諸制度は、そのような「自由」の維持発展に多かれ少なかれ寄与するものとして意図されているといえるが、「自由」のための基本的な制度的原理として要約するとすれば、「権力分立」の原理と「法の支配」の原理ということになろう。 (ハ) 「法の支配」の原理 「法の支配」の観念は古典古代のギリシャにその起源をもち、その後の西欧の長い歴史的過程の中で紆余曲折をたどりながら・・・17世紀のイギリスにおいて近代的な個人の「自由」の観念と結びついてより具体的で明確な形をとって現出したのものである。 ロックは、法の目的は、自由を廃止したり、制限したりすることではなく、むしろ自由を維持し、拡大することにあり、法のないところには自由はないことを力説した。 自由とは、他の人々による拘束や暴力から解放されることであるが、このことは法のないところでは不可能であること、他人の気まぐれな意思の対象とされることなく、自らの意思に従って行動できるということが自由の意味するところであること、 にロックは関心を向けたのである。 成文憲法中に個人の自由を列挙することによってその保障の確実さを期そうとした、アメリカ独立革命期の邦の憲法が、「法による統治であって、人間による統治ではない」ことを力説したのも、ロックのそのような発想に通ずる。従って、「法の支配」という場合の「法」観念は独特のものであることが注意されなければならない。 それは簡単にいえば、自由な主体たる人間の秩序の中で自ら発生してくるような「法」、換言すれば、自由な主体たる人間の共存を可能ならしめる上で必要とされる「法」ということになろう。(因みに、ハイエクは、人間社会における秩序を、「自生的秩序(spontaneous order)」と「組織(organization)」とに分かち、それぞれを古典古代のギリシャの kosmos [本来、「国家ないし共同体における正しい秩序」を意味する発生的秩序]と taxis [例えば、軍隊の秩序のような人為的秩序] とに対応させている。 「自生的秩序」は多くの人間の行為の所産ではあるが、人間の意図・企画によって作られたものではないのであり、そのような「自生的秩序」の法はノモス [nomos] と呼ばれ、「組織」の規則であるテシス [thesis] と対比される。そして、このように捉えられた「法」の支配と自由との結びつきが示唆されている。) 先に触れた近代的な「権力分立」の原理は、この「法」観念との結びつきで理解される必要がある。つまり、「立法」「司法」「行政」は、独自の制度的倫理構造をもちつつ「法」に対してそれぞれ独自のかかわり合い方をするものであって、それらの分離なしには個人の「自由」はありえないとされたということである。 1 「立法」について、ロックは、すべての市民に等しく適用される「正しい行為に関する一般的なルール」を想定したが、 実際、一般に、立法府の力といえども無制限とは観念されず、そのような「一般的ルール」の定立に限定され、かかるルールによってすべての権力に必要な制限を課すことが期待された。 2 モンテスキューによって「人間の間でしかく恐るべき裁判権」と呼ばれた「裁判権」は、「法」による裁判権、同じくモンテスキューのいう「法の言葉を述べる口」としての裁判権、つまり「司法権」として把握され、 そのことによってむしろ個人の「自由」の重要な守りテとしての地位をもつに至った。 3 「行政」については「法」による統制が課題とされ、その自由裁量性に猜疑の目が向けられた。 ダイシーは、「法の支配」をもって、「種々の見地からみてイギリス憲法の下で個人の権利に与えられた保障」としてその性格を把握し、その具体的内容として、 ① 専断的権力に対立するものとしての通常の法の絶対的優位ということ、すなわち、国の通常裁判所において通常の法的な方法で確定された法に明白に違反する場合を除いて何人も処罰されず、または合法的に身体もしくは財産を侵害されえないという命題、 ② 法の前の平等、すなわち、地位または身分を問わずあらゆる人が国の通常の法に服しかつ通常裁判所に服するという命題、 ③ 憲法の一般的法原則(人身の自由の権利や公の集会の権利など)は個々の事件において私人の権利を決定する判決の結果であるという命題、 を指摘した。 このダイシーの言葉からもうかがわれるように、「法の支配」にあっては裁判所が格別の役割を担っており、アメリカ合衆国で登場した違憲立法審査制は、この「法の支配」を徹底したものであるということができる。もっとも、ダイシーの右の指摘については、当時のイギリス法の現実をどれ程忠実に描写するものであるか疑問の余地があり、また、自由放任主義的な消極国家を基盤としていることは否定し難く、 現代積極国家段階においてそのままではもはや妥当しないことは承認されなければならない。 しかし、「個人の権利保障」という「法の支配」の性格の意義は積極的に評価さるべきであり、国家機能とりわけ行政権の拡大・裁量権の増大の不可避性を前提とした上で、公権力の恣意性を具体的にいかにコントロールするかの観点から、 「法の支配」の原理を再構築し、一層展開せしめて行くことが必要というべきである。 日本国憲法は、詳細な基本権のカタログを掲げつつ、憲法の最高規範性の確認(97条1項)の下に、司法権を強化し、行政事件に関する裁判権もそれに取り込む一方(76条)、裁判所に違憲立法審査権を付与しており(81条)、 明らかに「法の支配」の原理に立脚していることを示している。 ◆4.リベラル右派の見解(ハイエク、阪本昌成) F. A. Hayek 『自由の条件Ⅱ 自由と法』(1960年刊) p.194以下 法の支配は、立法全体に対する制限であるという事実から推論されることは、それ自体が立法者の可決する法律と同じ意味での法律ではありえないということである。憲法上の規定は、法の支配の侵害を一層困難にするであろう。 それらは慣習的な法律制定による不注意な侵害を防ぐのに役立つかもしれない。しかし最高の立法者は、法律によって自分自身の権力を決して制限することができない。 というのは、かれは自分のつくったいかなる法律をもいつでも廃棄できるからである。したがって、法の支配(the rule of law)とは法律の規則(a rule of the law)ではなく、法律がどうあるべきかに関する規則(a rule concerning what the law ought to be)、 すなわち超-法的原則(a meta-legal doctrine)あるいは政治的理念(a political ideal)である。それは、立法者がそれによる制約を自覚しているかぎりは有効である。 民主主義のもとでは、それが共同社会の道徳上の伝統、多数の人が共有し、問題なく受け容れる共通の理念の一部を形成しないかぎり、法の支配は普及しないであろうということになる。 (原文)From the fact that the rule of law is a limitation upon all legistlation, it follows that it cannnot itself be a law in the same sense as the laws passed by the legistor.Constitutional provisions may make infringements of the rule of law more difficult. They may help to prevent inadvertent infringements by routine legislation.But the ultimate legislator can never limit his own powers by law, because he can always abrogate any law he has made. The rule of law is therefore not a rule of the law, but a rule concerning what the law ought to be, a meta-legal doctrine or a political ideal.It will be effective only in so far as the legislator feels bound by it. In a democracy this means that it will not prevail unless it forms part of the moral tradition of the community, a common ideal shared and unquestioningly accepted by the majority. F. A. Hayek 『法と立法と自由Ⅰ ルールと秩序』(1973年刊) p.120以下 立法が法の唯一の源泉である、という概念から二つの観念が引き出されている。それらは、初期の擬人化による誤りが生き残っているあの誤れる設計主義から全面的に導出されているが、現代ではほとんど自明のこととして受け入れられるようになり、政治の展開に大きな影響を与えてきた。最初のものは、これはより高次の立法者を必要とし等々と無限に続くから、その権力を制限することができない最高の立法者があるに違いないとする信念である。 第二のものは、その最高の立法者が制定したものは何であれ法であり、彼の意志を表現するもののみが法である、とする考えである。 ベーコン、ホッブズ、オースティン以来、まずは国王の、後には民主制議会の、絶対権力の一見疑う余地のない正当化に一役買った、最高の立法者の必然的に無制限な意志という概念は、 法という用語が組織の熟慮の上での足並みの揃った行為を導くルールに限定されるならばその場合にのみ、自明であるように思われる。 このように解釈すれば、ノモスという初期の意味では全ての権力に対する障壁となるはずであった法は、逆に権力行使の道具となる。 F. A. Hayek 『法と立法と自由Ⅰ ルールと秩序』(1973年刊) p.158以下、P.171以下 結局のところ、司法過程から生じる正義に適う行動ルール、すなわちノモスまたは本章でみた自由の法と、次章の研究対象となる権威によって制定された組織のルールとの違いは、前者が人間のつくったのではない自生的秩序の諸条件から導かれるのに対し、後者は特殊化された意図に資する組織の熟慮の上での構築に役立つという事実の中にある。前者は、それらがすでに守られていた実践を明文化したにすぎないという意味でか、 すでに確立されているルールに依拠する秩序を円滑かつ効率的に運営しようというのであれば、それらはこうしたルールの必要補完物と見なされなければならないという意味で、発見されるのである。自生的な行為秩序の存在が裁判官にその固有の仕事を課さなかったならば、それらは発見されなかったであろう。 したがって、それらは、特定の人間的意志とは無関係に存在するものと当然考えられる。 一方、特定の結果を目指す組織のルールは、組織者の設計する知性の自由な発明品であろう。(中略)憲法憲法という法に包含されている政府の諸権力の割り当てと制限に関する全てのルールは、まず、我々が「法」と呼びならわしてはいるが、組織のルールであって正義に適う行動ルールではないルールに、属する。 これらのルールは、広く、特別な威厳を付与されている、あるいは他の法に対するより大きな尊敬が払われてしかるべき、「最高」級の法とみなされている。 しかし、これを説明する歴史的理由はあるものの、それらのルールを普通いわれているように他の全ての法の源泉としてでなく、法の維持を保障するための上部構造と見るほうが、適当である。しかし、こうしたこと(※注:憲法という法に特定の威厳と基本的な性格が与えられていること)で、憲法が、基本的に、事前に存在する法体系の中の法を施行するためにそうした法体系の上に構築された上部構造であるという事実が、変わるわけではない。いったん確立されると、憲法は、他のルールがそこからその権威を引き出すという論理的な意味で「第一義的」であるようにみえるが、それはなおこれらの事前に存在するルールの支持を企図している。それは、法と秩序を守り、他のサービスの給付装置を提供する手段をつくりだすが、法と正義が何であるかを定義しない。 F. A. Hayek 『法と立法と自由Ⅱ 社会正義の幻想』(1976年刊) p.70以下、P.88以下 だが、法を立法者の意志の産物として定義すると、その内容が何であれ立法者の意志の表出全てが「法」に包摂され(「法は全く任意の内容をもってよいことになる」(※注:H.ケルゼン))。その内容は法とよばれる様々な言明の間の何ら重要な区別をなさないという見解が、特に、正義は、いかなる意味でも、何が実際に法であるかを決めるものではなくて、むしろ何が正義であるかを決めるものが法であるという見解が、生まれてくる。旧来の伝統とは逆に、法の制定者は正義の創造者であるという主張が、法実証主義の最も特徴的な教義となった。 (中略)主権という概念は、国家という概念と同様に、国際法のための不可欠の用具である - その概念をそこでの出発点として受け入れるならば、そのことによって、国際法というまさにその観念が無意味にされることはない、とまでは確信できないが。しかし、法秩序の内部的性格の問題を考察するためには、どちらの概念も、人を迷わせるばかりでなく、不要であるように思える。事実、自由主義の歴史と同一である立憲主義の歴史全体は、少なくともジョン・ロック以降は、主権についての実証主義者の概念や全知全能の国家という関連概念に対する闘争の歴史であった。 阪本昌成『憲法1 国制クラシック 全訂第三版』(2011年刊) p.41以下から抜粋⇒全文は 第7章 法の支配 へ 1. 「法の支配」の捉え方 (1) 法の支配とは何でないのか 「法の支配」は、多くの人が口にする基本概念でありながら、その実体につき合意をみない難問である。とはいえ、法の支配の目指すところについては、論者の間におおよその合意がある。“その目的は、可能な限りすべての国家機関の行為を法のもとにおいて、その恣意的な活動を統制し、もって人々の基本権を保障せんとするところにある。” が、この機能論的な説明は、法の実体の解明にはなっていない。 また、法の支配とは何でないのか、という疑問についても、法学者の間で合意がみられる。その解答としては、次のふたつがある。 第一。 “法の支配は、絶対君主の統治にみられたような「人に支配」、すなわち、ルールに基かない、その場当たりの恣意的な権力発動を通して人々を支配することではない。” 第二。 “法の支配は、法治主義ではない。法治主義とは、国民の権利義務に変動を与えるとき、その国家意思は議会の意思を通して実定法化されるべきこと、 そして、行政はその議会法を執行し(“法律なければ行政なし”)、裁判所は議会制定法に準拠して法的紛争を解決すること、をいう。” (2) 法の支配と法治主義 「法の支配」にいう法は、民主的機関である議会の制定する法律をも統制し、主権者の意思をも統制する機能をもっている。この機能については、法学者は異論を唱えないだろう。未解決の争点は、“その狙いのために、法の支配にいう「法」がいかなる属性をもっているのか”というところにある。 (3) 法の支配と正義 法の支配とは、《主権者といえども、人為の法を超える高次の法のもとにある》という思想を起源とする。 それは、法(law)と立法(legislation)との区別のもとで、前者が後者を指導する、という思想である。高次の法 higher law とは、・・・(中略)・・・“fundamental law”と同じである。 Higher law または fundamental law の内容は、《正義に適っているルール》を指してきた。 ところが、「正義」の捉え方は歴史によって変転し、論者によってさまざまとなっているために私たちを混乱させているのだ。 法の支配を正義と関連づけるとき、その捉え方には、大きくふたつの流れがみられた。 第一は、 問題の法令の実質・内容を問う立場である。正義の種類からいえば、実質的正義論に属する。その典型的立場が自然法論である。 第二は、 問題の法令の形式を重視するタイプである。正義の種類でいえば、形式的正義論である。 これは、問題の法令が、どのような特定の人びとをも対象とせず、特定の目的も知らず、一般的で普遍的な形式を満たしているか否かを問うのである。 これは、《人為法が普遍的に妥当する形式をもっていれば、不正を最小化できる》といいたいのだ。 2. 「法の支配」の理論と憲法典 (1) 法の支配の理論化 法の支配を脱実体化しながら理論体系としたのが、イギリスの法学者A. ダイシー(1835~192年)である。彼は、臨機(場当たり)でなく、誰もが知りえて、特定可能な対象にではなく、誰に対しても等しく恒常的に適用されうる法の形式を、「正規の法 regular law」と呼んだ。それは、《類似の事案は同じように法的に解決される》という平等原則のなかから浮かび出た形式である。 それは、多年にわたる実践と蓄積のなかで、次第しだいに、人間が獲得してきた法的知識だった。 その法的知識を専門的に修得するのが法曹であり、なかでも裁判官である。身分の独立保障をうけてきた裁判官は、当事者の主張に耳を傾けながら、正しい解決のために、誰に対しても等しく適用されてきた論拠を発見するのである。 (2) 法の支配の突出部 形式的正義論をベースとする法の支配の考え方には、 (ア) 法は特権を容認せず、一般的普遍的な形式をもたなければならない、 (イ) 法は公知(誰もが前もって知りうるもの)で恒常的でなければならない、 (ウ) その適用に矛盾があってはならない、 という命題が伴っている。これらの命題は、法の予見性・安定性に資し、経済自由市場における交易を一挙に促進することとなった。 自由市場の生育を可能としたのは、法の支配という憲法上の基本概念だった。法の支配が、経済的自由、身体・生命の自由その他の自由へと拡大するにつれて、自由主義国家の基盤ができあがっていったのだ。 法の支配は、経済市場における諸自由だけでなく、国家の刑罰権と課税権とを有効に統制する論拠となった。 罪刑法定主義と租税法律主義が、法令の遡及的適用を排除したり、慣習を法源たりえないとしたり、法令の裁量的適用に警戒的であるのは、法の支配の思想が、一部実定法上に突出したためである。 法の支配は、われわれの権利義務に関する実定法(人為法)を指導するメタ・ルールである。 法の支配という思想は、あるルールを実定化するにあたって実定法を先導する上位のルールである。たとえ憲法を含む実定法が法の支配を謳ったとしても、それこそが「自己言及のパラドックス」にすぎないのだ。 (3) 法の支配と憲法との関係 法の支配は、国家の不正義を最小化するための理念として、歴史上さまざまな論者が肉付けしてきた。 この理念は、sovereignty、なかでも、君主の有してきたそれをまず統制しようとした。 sovereignty は、「主権」と訳出されるが、この訳語では伝えきれないニュアンスをもった言葉である。それは、「主権」というよりも、絶対権または最高権といったほうがいいだろう。 憲法は、最高・絶対の主権を統制するための「基本法」として、歴史に登場した。このことからも分かるように、憲法は、法の支配という構想の必須部なのだ(が、しかし、憲法が法の支配にいう法ではない)。 主権の帰属先が君主から国民になった場合でも、法の支配の理念に変更はない。 今日においても、すべての国家機関、なかでも国民の主権と、国民代表機関である議会とを、法のもとにおく必要があるのだ。 そのために、憲法は法の支配の理念の一部を組み込もうとする。 1 統治の機構においては、①独立の保障される司法部、②特別裁判所の禁止、③憲法条規の最高法規性の宣言がこれであり、 2 権利章典の部においては、①適正手続保障、②遡及処罰の禁止、③公正な裁判の保障等がこれである。 もっとも、こうした個別の条規を列挙することは、憲法と法の支配との関係を考えるにあたっては二次的な意味しかもたない。 教科書のなかには、法の支配について、(ア)憲法の最高法規性、(イ)基本権の尊重、(ウ)適正手続保障、(エ)司法審査制を列挙するものがある。 もしこの思考が法の支配の論拠を日本国憲法典に求めようとしているのであれば、ひとつの体系内に根拠を求める「自己言及のパラドックス」に陥ってしまっている。 もし論拠を示したものではなく、“法の支配がかような諸点に現れている”というのであれば、(イ)と(ウ)はダブルカウントであり、(エ)は法の支配の内在的な要請ではなく(英国には、司法審査制はない)、法の支配を有効にするための手段にすぎないことの説明に欠けている。 このように、憲法と法の支配との関係をみるとしても、要注意点は、《憲法典という実定化された法が法の支配にいう“法”ではない》ということである。 たしかに、憲法典は法の支配の理念を一部活かしている。が、しかし、「憲法典=法の支配」ではない。 (4) 法の支配と主権との関係 《法の支配は憲法典や主権をも統制する》とのテーゼを理解するためには、次の(ア)~(ウ)に留意しておかなければならない。 (ア) 一般の教科書によれば、国民主権にいう「主権」とは、憲法制定権力のことを指す。 (イ) 主権は、国制を意味する憲法を創出する力であり(憲法を作り出す力としての主権。以後、憲法制定権力を「制憲権」という)、憲法典は、この制憲権によって作り出される。 (ウ) [制憲権→憲法典]という理論上の順序関係を考えれば、憲法典によって主権を統制することはできない。 では、「憲法典によって主権を統制することはできない」とき、主権(制憲権)は何によって規範的な拘束を受けているのだろうか? 実体的正義論者は、自然法、人間の理性、人間の尊厳等をあげるだろう。これらの実体的要素はいずれも客観性に欠けるとみる批判的な論者であれば、「主権者の自己拘束だ」というかもしれない。 それらの解答を、私はいずれも受容しない。《主権を規範的に統制するもの、それが法の支配だ》、これが私の解答である。 法の支配にいう「法」とは、実定的な法ではなく、最低限の形式的正義のことだ、と私は理解している。 (5) 法の支配と法律との関係 法の支配は、先に触れたように、国民の主権や、国民代表機関である議会の権限(法律制定権)をも統制する理念である。 では、法の支配は、議会の立法権(法律制定権)をどのように統制するか?私のような、形式的正義論者は、こう解答するだろう。《議会が法律を制定するにあたっては、一般的普遍的な形式をもたせなければならない》。 この解答は、日本国憲法41条の「立法」の解釈に活かされるだろう。立法(法律)が一般的普遍的であるという形式を満たすとき、それは 第一に、 一定の要件を満たす限り誰に対しても適用されうるとする点で道徳的にみて正当であり、 第二に、 予見可能性・法的安定性を増すという点で経済的にみて合理的である。 法の一般性・普遍性とは、法規範の名宛人が事前に特定可能でないことをいう。法の支配にとって最も警戒され続けてきた点は、法が人的な属性に言及しながら、特定可能な人びとを特別扱いすることだった。 法の支配は、人的な特権を忌避して、誰であれ自分の限界効用を自由に(国家から公法規制や指令を受けないで)満足させてよい、とする思想でもあるのだ。 ※その他参照先 阪本昌成『憲法理論Ⅰ 第三版』(1999年刊)第一部 国家と憲法の基礎理論 第四章 立憲主義と法の支配 ■5.「法の支配」とは何か(暫定的な要約) 1 英米圏の標準的な理解では「法の支配」とは、①まず第一に「手続的正義・形式的正義」を中核とする法内在的正義の要請をいい、②配分的正義など「実質的正義」に関する要請は、あくまで周縁的に考慮されるに留まる。 2 次に、③「法の支配」がどのような働きを果たすのか、を考える機能的アプローチでは、それが「人の支配」ではないことから主権論との関係が問題となる。⇒「法の支配」は「特定の人の“意思”に基く支配」を拒絶しており、主権者(法=主権者意思説)と両立しない。(「君主主権」(君主一人の意思による支配)のみならず集合意思としての「国民主権」も原理的には「法の支配」と両立しない)。 では、特定の人の意思の産物ではない「法」とはいったい何なのか? ⇒ それは「ノモス(nomos 意図せざる人為の法)」つまり歴史的構築物としての「法」(自生的秩序の法)である。(すなわち、フュシス(physis, natural law 自然法)やテシス(Thesis 純然たる実定法)ではない) 1 では、①手続的・形式的正義に関する法準則が「法の支配」の中核要素である、と述べたが、③機能的アプローチでは、そうした形式を超える「何らかの実質的価値」を想定していることになる。 しかしそれでも、この場合の「実質的価値」は、左派系の正義論にありがちな、(1)人権保障、(2)憲法の最高法規性、といったものではなくて、ノモス概念としての「法」=特定の共同体で自生的に発展してきた慣習法であることから、実質的意味の憲法(国制)に接近する。 ⇒この③を、①の(狭義の)「法の支配」と区別して、「国体の支配」ないし「ノモスの支配(nomocracy)」と呼ぶべきである。 3 最後に、「法の支配」の「法」と、(a)実質的意味の憲法(国体法ないし国制)および、(b)形式的意味の憲法(憲法典)、との関係について整理する。 ①(狭義の)「法の支配」は、あくまで消極的に理解されるべき法理念(「~は法ではない」、という形式の言明で表現されるもの)であり、憲法を含めた立法全体に対する制限となるメタ・ルールであって、法規範ではない。 これに対して、③ノモスは、成文であれ不文であれ、「~は法である」という形式の言明で、一応は積極的に把握されうる法規範としての実体(substance)をもつもの、である。 さらに、テシスは、その定義から完全に積極的に把握できる成文法(実定法 positive law)である。 ■6.関連用語 ほうち-しゅぎ【法治主義】 広辞苑 ① 人の本性を悪と考え、徳治主義を排斥して、法律の強制による人民統治の重要性を強調する立場。韓非子がその代表者。ホッブズも同様。 ② 王の統治権の絶対性を否定し、法に準拠する政治を主張する近代国家の政治原理 → 法の支配 ほうちしゅぎ【法治主義】rule of law(※注:原文ママ) 日本語版ブリタニカ 行政は議会において成立した法律によって行われなければならない、とする原則。 1 行政に対する法律の支配を要求することにより、 2 恣意的・差別的行政を排し、国民の権利と自由を保障することを目指したもので、立憲主義の基本原則の一つに挙げられている。この原則に基く国家を、法治国家という。 ほうち-こっか【法治国家】 広辞苑 国民の意思によって制定された法に基づいて国家権力を行使することを建前とする国家。①権力分立が行われ、②司法権の独立が認められ、③行政が法律に基いて行われる、とされる。法治国→ 警察国家 ほうちこっか【法治国家】Rechtsstaat 日本語版ブリタニカ 行政および司法が、あらかじめ議会の制定した法律によって行われるべきである、という法治主義の国家。すなわち、全国家作用の法律適合性ということが、法治国家の本質とされたのであるが、 1 その際、イギリス法の「法の支配」 rule of law と違い、 2 行政および司法が、国民の代表機関たる議会によって制定された法律に適合していればよい、 という形式的側面が重視された結果、法治国家論は、法律に基きさえすれば、国民の権利・自由を侵害してよい、という否定的な機能を果たし、法や国家の目的・内容を軽視する法律万能主義的な傾向を内包していた。 (1) 第二次世界大戦後、西ドイツは、この点に反省を加え、(a)立法・行政および裁判を直接に拘束する不可侵・不可譲の基本的人権を承認し、(b)これを確保するために憲法裁判所を設置して、これに法令の憲法適合性を審査する権限を与えた。 (2) 日本の場合も、憲法は、裁判所に、いわゆる法令審査権を与えている(81条)。 このようにして、 [1] 行政・司法が単に法律に適合している、という形式面のみならず、 [2] その法律の目的・内容そのものが、憲法に適合しなければならない、 という原則が確立され、それによって、いわば法治主義の実質的貫徹が期されている。 ■7.参考図書 『法の支配 - オーストリア学派の自由論と国家論』(阪本昌成 著(2006年刊))オーストリア学派の社会哲学をもとに、「法の支配」を自然法思想の呪縛から解放した目から鱗の名著 『法とは何か - 法思想史入門』(長谷部恭男:著(2011年刊))こちらも読み易く内容の確りした良書 ■8.ご意見、情報提供 ↓これまでの全コメントを表示する場合はここをクリック +... test - 名無しさん (2019-07-29 09 07 34) 以下は最新コメント表示 test - 名無しさん (2019-07-29 09 07 34) 名前 ラジオボタン(各コメントの前についている○)をクリックすることで、そのコメントにレスできます。 ■左翼や売国奴を論破する!セットで読む政治理論・解説ページ 政治の基礎知識 政治学の概念整理と、政治思想の対立軸 政治思想(用語集) リベラル・デモクラシー、国民主権、法の支配 デモクラシーと衆愚制 ~ 「民主主義」信仰を打ち破る ※別題「デモクラシーの真実」 リベラリズムと自由主義 ~ 自由の理論の二つの異なった系譜 ※別題「リベラリズムの真実」 保守主義とは何か ※概念/理念定義、諸説紹介 まとめ ナショナリズムとは何か ケインズvs.ハイエクから考える経済政策 国家解体思想(世界政府・地球市民)の正体 左派・左翼とは何か 右派・右翼とは何か 中間派に何を含めるか 「個人主義」と「集産主義」 ~ ハイエク『隷従への道』読解の手引き 最速!理論派保守☆養成プログラム 「皇国史観」と国体論~日本の保守思想を考える 日本主義とは何か ~ 日本型保守主義とナショナリズムの関係を考える 右翼・左翼の歴史 靖國神社と英霊の御心 マルクス主義と天皇制ファシズム論 丸山眞男「天皇制ファシズム論」、村上重良「国家神道論」の検証 国体とは何か① ~ 『国体の本義』と『臣民の道』(2つの公定「国体」解説書) 国体とは何か② ~ その他の論点 国体法(不文憲法)と憲法典(成文憲法) 歴史問題の基礎知識 戦後レジームの正体 「法の支配(rule of law)」とは何か ※概念/理念定義、諸説紹介 まとめ 立憲主義とは何か ※概念/理念定義、諸説紹介 まとめ 「正義」とは何か ~ 法価値論まとめ+「法の支配」との関係 正統性とは何か ~ legitimacy ・ orthodoxy の区別と、憲法の正統性問題 自然法と人権思想の関係、国体法との区別 「国民の権利・自由」と「人権」の区別 ~ 人権イデオロギー打破のために 日本国憲法改正問題(上級編) ※別題「憲法問題の基礎知識」 学者別《憲法理論-比較表》 政治的スタンス毎の「国民主権」論比較・評価 よくわかる現代左翼の憲法論Ⅰ(芦部信喜・撃墜編) よくわかる現代左翼の憲法論Ⅱ(長谷部恭男・追討編) ブログランキング応援クリックをお願いいたします(一日一回有効)。 人気ブログランキングへ